は、どっちも蓋の裏に字が彫ってあるんでね、そこまでは、どうせ気がつかないだろうと思って実は心配していたよ」
 父はいかにも気が楽になったという顔つきで私の手を自分の手の中へとった。そして情をこめてもう片方の手で上からそれをたたくようにした。
「どうもそうわかって見ると俄かに惜しくなって来た。どいつが盗ったのか、怪しからん奴だ」
 その二つの時計は父が畳廊下の小物箪笥の引出しに入れておいたのを、いつの間にか誰かに持ち出されてしまっていたのであった。今だに誰の仕業だか分らない。時計は正確ならそれで十分だと云って、父はそれから無事にのこったプラチナの鎖の先にクロームの胴をくっつけて使っていたのであった。
 私が林町で父と最後にわかれる一月ばかり前、珍らしく国府津にある小さい家で父と数日暮したことがあった。母が亡くなり、弟夫婦が林町に住むようになった当時、父は自分の居り場所がきまらないような心持であったらしく、私に向かって幾度かお前と国府津で暮そうかと云った。お前の勉強する場所がいるなら拵えてやるよと云ってもくれたが、出入りにそこが不便なばかりでなく、仲よい父娘の一方は妻に先立たれ、一方は良人
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