箱根から慶応病院まで父の体について行った時計も恐らくはそれだったのではないかしら。この胴がクロームという時計については、忘られない話がある。余程古いことになるが或る時、林町へ遊びに行った私に、父がふっと、
「お前、俺の折りたたみナイフを持ってって使っているかい」
と訊ねた。父が初めてイギリスへ行った時買って来たもので、七つ道具が附属した便利な品であった。
「ああ、つかっていてよ」
「――時計も持ってったかい?」
一寸声をおとすようにして、私にだけ聴えるように父はそれを云った。
「時計って――」
我知らず私も声を低め、
「どんな?」
「プラチナの懐中時計が二つとも見えなくなっているから、お前が持って行ったのかと思っていたよ」
「知らないことよ。……本当に見えないの?」
びっくりして私は少し高い声を出した。父には私のびっくりした表情が意外だったらしく、
「お前じゃなかったのか」
と、私の顔を見直した。
「私じゃないわ……いやだわ、お父様ったら! お盗られになったのよ」
「……ふうむ。……お前じゃなかったのか。俺はまた可愛いお前がそんなに貧乏して俺にも云えないでいるのかと思った……あれ
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