客の方は、いかにも長上に対する儀礼的な身のこなしで片足を引きつけるようにして、無言のまま軽く優雅に頭を下げることでその冗談に答えた。
些細な場面であるが、ふだんそういう情景から離れて暮している私にとっては、胸にのこされるものがあった。その若い客が本来父に対してもっている顔付、感情はそのひとが下を向いていた瞬間だけその顔に閃いたことを父はまるで心付いていなかった。自分とその客との間にある内面的な距離等と云うことには一向頓着しない晴々した陽気さで、返事をされない冗談を云いながら父はその客と連立って夜の自動車で出て行った。
活気のある無頓着さで、父は晩年になっても身なりなどちぐはぐの儘でいた。私や妹等がお父様折角この服を着たのならネクタイはああいう色だといいのに、と云ったりした。お前たちは、さすが俺の子だね。なかなか趣味がいい。そう云って大層御機嫌であるがネクタイの方は大抵そのままであった。忘れた時分に、百合子、お前三十五銭のネクタイというのを知っているかい、などと云って得意であった。
父は腕時計をつかわず、プラチナの鎖つきの時計をもって歩いていたが、胴の方はクロームであった。最後に、
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