慕う娘、そういう関係は永い歳月のうちに次第に変化もし、成長した。この三四年間には父と一緒に過す楽しい数時間、或は真面目に落着いた短い会話が、揺がぬ充実感で互を満すところまで高まっていた。言葉で云いつくせない人間としての信頼が互を貫いていた。
 父に死なれて、私は初めて此の世に歓喜に通ずる悲しみというものも在り得ることを知った。本当に私は悲しい。しかし、その悲しさはいかにも広々としており透明で、何とも云えぬ明るさ温さに照りはえている。その悲しみがそんなだから、その悲しさではどう取乱すことも出来ず、またどう心を傷つけ歪めることも出来ない。そんな風に感じられる。生活が避けがたい波瀾を経験するようになってから、私は自分の愛する父と、たとえいつ、どこで、どのような訣れかたをしようとも、万々遺憾はないように、そういう工合に暮して置こうと心がけていた。その気合いは父にも通じていた。それにしても、その互の心持はまことに、こうもあるものか。おどろきの深い心持がある。このおどろきの感情が脈々と私を歓喜に似た感情へ動かしたのであるが、今年の二月・三月は春になってからの大雪で、私が生活していた場所の薄暗く曲った渡り廊下の外の庇合には、東京に珍しく堆たかい雪だまりが出来たりしていた、その光景は変化のない日常の中で不思議な新鮮さをもって印象にのこったが、折から目に映じるそういう荒々しい春の風物と、新しく私のうちに生じて重大な作用を営みはじめた悲しみが歓喜に溶け込む異常な感覚とは、互に生々しく交りあって波動するようで、雪だまりがやがてよごれて消えるのもなかなか忘れ難い時の推移であった。
 父と私との情愛が、独特な過程をもっていて、理窟ぬきの、黙契的な然し非常に実践的な性質を持つようになったことには、私たちの母であった人の性格が大きい関係を持っていたと考えられる。
 母は情熱的な気質で、所謂文学的で多くの美点を持っていたが、子供達に対する愛情の深さも、或る時は却ってその尊ぶべき感情の自意識の方がより強力に母の実行を打ちまかすことがあった。私はそういう母の愛についての理窟には困った。父もまた良人又は父親として、そういう点の負担を感じる機会が少くなかったであろうと思う。父と私とが永い変化に富んだ親子の生涯の間に、殆ど一遍も理窟っぽい話をし合ったことのないのは興味あることだったと思う。
 父は明治元年に米沢で生れた。十六の年初めて英語の本というものを手にとったが、絵のところが出て来て始めてそれまで其の本を逆さまにして見ていたことが分った。俺の子供の時分はひどいものだった、そんな話の出たこともあった。大学生時代、うちの経済が苦しくて外套は祖父のお古を着ていたが一冬着ると既にいい加減参っている裾が忽ちボロボロになる。すると、おばあさんがそこだけ切って縫いちぢめて、次の冬また着せる。二年、三年とそれを着て、結婚の話が起るようになって、見合いの写真をとったのが今もあるが、少し色の褪せかけた手札形の中で、角帽をかぶり、若々しい髭をつけた父が顔をこちらに向けて立ち、着ているのは切れるだけ切りちぢめて裾が膝ぐらい迄しかなくなったそのお古外套なのであった。そうと知らずに見ればハイカラだと私たちは大笑いした。
 青年時代に日清、日露と二つの戦争を経て、日露戦争前後にはイギリスに数年暮したりした父は、過去六十九年間の日本の経済の発展、変遷と歩調を合わせて、建築家としての経歴を辿って来た。大学を出て役所に入ったのを自分から罷めて、民間の一建築家として活動しはじめた四十歳の父の心持や、その頃の日本の経済的、文化的雰囲気などというものも、私として或るところ迄推察されないこともない。いつの晩だったか、やはり父が安楽椅子に、そして私がその足許にくっついて喋っていたような時、
「だってお父様、日本倶楽部だの何だのでそういう話なんかなさらないの? みんなお歴々なんじゃないの?」
と、訝しく思って訊いたことがあった。その夜の夕刊に出た何か政治的のことであった。
「そりゃそういう人もあるだろうが、俺はきらいだ、面倒くさいよ」
 父はこういうたちであった。自身は淡白に、無邪気に建築家という技術を唯一の拠りどころとして生き通した。専門が違い、細かいことは分らないながら、私は世の中での父の仕事というものを幾分観ていたから、父が一箇の建築家から曾禰達蔵博士と共同の建築事務所の経営者としての生活に移って行く意味深い歴史の変化も、恐らくは父の知らなかったに違いない関心で眺めていた。
 去年、まだ寒い時分の或る夕方のことであった。林町へ出かけて行って何心なく玄関をあけたら厚い外套を着た父が沓脱石の上に立っていて、家のものがスパッツのボタンをはめてやっているところであった。わきに、もうすっかり身仕度のすんだ一人の青年
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