紳士が帽子を手に持って待っていて、出かけるばかりのところである。私は、覚えず少しがっかりした調子を声に出して、
「お出かけ?」
と云いながら近づいて行った。
「ほう、来たね」
父はいかにも上機嫌な歓迎の表情で顔をあげた。
「ゆっくりしといで」
「きょう、来て下すったんだって?」
朝のうち出かけて帰って来たら、生垣の向うから隣りの奥さんが声をかけて、お父様がいらしったようでしたよ、頻りに百合子、百合子って、大きな声で幾度もお呼びんなっていましたよ、と教えてくれた。私はそれをきいて、朝からしめっぱなしの家の雨戸をそのまんま、やって来たところなのだった。
何だか、じゃあまた来直おそうという気もしないで、賑やかに幾分仰々しい出仕度を眺めてそこに立っていた。すると父は自分の方を人まかせにしながら、
「ああ紹介しよう」
と、こちらは××の誰さん、
「娘です」
と云った。私はその人と改めて挨拶をした。父はそのとき少し浮立って見える程であった。そして、××君とその客の名を呼びかけ、二言、三言今は思い出せないが何か単純な冗談めいたことを云った。父は自分から興にのってそれを云ったのだけれど、当の若い客の方は、いかにも長上に対する儀礼的な身のこなしで片足を引きつけるようにして、無言のまま軽く優雅に頭を下げることでその冗談に答えた。
些細な場面であるが、ふだんそういう情景から離れて暮している私にとっては、胸にのこされるものがあった。その若い客が本来父に対してもっている顔付、感情はそのひとが下を向いていた瞬間だけその顔に閃いたことを父はまるで心付いていなかった。自分とその客との間にある内面的な距離等と云うことには一向頓着しない晴々した陽気さで、返事をされない冗談を云いながら父はその客と連立って夜の自動車で出て行った。
活気のある無頓着さで、父は晩年になっても身なりなどちぐはぐの儘でいた。私や妹等がお父様折角この服を着たのならネクタイはああいう色だといいのに、と云ったりした。お前たちは、さすが俺の子だね。なかなか趣味がいい。そう云って大層御機嫌であるがネクタイの方は大抵そのままであった。忘れた時分に、百合子、お前三十五銭のネクタイというのを知っているかい、などと云って得意であった。
父は腕時計をつかわず、プラチナの鎖つきの時計をもって歩いていたが、胴の方はクロームであった。最後に、箱根から慶応病院まで父の体について行った時計も恐らくはそれだったのではないかしら。この胴がクロームという時計については、忘られない話がある。余程古いことになるが或る時、林町へ遊びに行った私に、父がふっと、
「お前、俺の折りたたみナイフを持ってって使っているかい」
と訊ねた。父が初めてイギリスへ行った時買って来たもので、七つ道具が附属した便利な品であった。
「ああ、つかっていてよ」
「――時計も持ってったかい?」
一寸声をおとすようにして、私にだけ聴えるように父はそれを云った。
「時計って――」
我知らず私も声を低め、
「どんな?」
「プラチナの懐中時計が二つとも見えなくなっているから、お前が持って行ったのかと思っていたよ」
「知らないことよ。……本当に見えないの?」
びっくりして私は少し高い声を出した。父には私のびっくりした表情が意外だったらしく、
「お前じゃなかったのか」
と、私の顔を見直した。
「私じゃないわ……いやだわ、お父様ったら! お盗られになったのよ」
「……ふうむ。……お前じゃなかったのか。俺はまた可愛いお前がそんなに貧乏して俺にも云えないでいるのかと思った……あれは、どっちも蓋の裏に字が彫ってあるんでね、そこまでは、どうせ気がつかないだろうと思って実は心配していたよ」
父はいかにも気が楽になったという顔つきで私の手を自分の手の中へとった。そして情をこめてもう片方の手で上からそれをたたくようにした。
「どうもそうわかって見ると俄かに惜しくなって来た。どいつが盗ったのか、怪しからん奴だ」
その二つの時計は父が畳廊下の小物箪笥の引出しに入れておいたのを、いつの間にか誰かに持ち出されてしまっていたのであった。今だに誰の仕業だか分らない。時計は正確ならそれで十分だと云って、父はそれから無事にのこったプラチナの鎖の先にクロームの胴をくっつけて使っていたのであった。
私が林町で父と最後にわかれる一月ばかり前、珍らしく国府津にある小さい家で父と数日暮したことがあった。母が亡くなり、弟夫婦が林町に住むようになった当時、父は自分の居り場所がきまらないような心持であったらしく、私に向かって幾度かお前と国府津で暮そうかと云った。お前の勉強する場所がいるなら拵えてやるよと云ってもくれたが、出入りにそこが不便なばかりでなく、仲よい父娘の一方は妻に先立たれ、一方は良人
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