と引離されている、その一対がそんな海辺の小家で睦じく生活する日々の美しさなどというものは、或る状態の気分のときの空想にはたのしく描かれるかもしれないが、けれども現実に動く生活を必要とする自分たちのような父娘には実際問題としてなりたたないことと思えた。
 父もその時は久しぶりの国府津であった。私達は薪を燃した大きい炉の前で波の音をききながらいろいろのことを話した。父の祖母に当るお俊というひとが一風ある婦人であったということもきいた。息子である父の父親が開墾事業に熱中しながら薄茶を大変好んでいたのをそのお俊という大祖母さんがおこり、薄茶立てたて開墾が出来るかと、それを封じてしまった。ところが、この祖父は僅か六十一歳で没した。その時お俊お婆さんは涙をこぼしながら、こんなに早く死ぬのだったら薄茶ぐらい飲ませてやればよかった、お運、立ててやれと、嫁である祖母に云って供えさせたそうだ。父は、このこわかったが物わかりはよかった祖母さんに、精一郎はお皿だ、と批評されたことがあったとその晩笑って云った。
「間口がひろくて、浅いところは我ながら成程適評だと思うね」
「――でも、お父様は小皿じゃないわ。かなりなお皿よ、深い大きい壺もその上にのせることの出来る皿だわ」
 そんな話もした。それから別の夜であったが何かの拍子で、母が父と結婚の式をあげた夜、襖ぎわまでころころころころ、ころがって行ってしまって夜じゅうそこから到頭離れずじまいだったという話が出た。私には父のその話し方がいかにも気に入った。父も母も愛らしく思いやられた。
「それでお父様はどうなすって?」
「どうするって……困ったようなものだが、つくづく無理もないと思ったね。何しろいきなり見ず知らずの家へ連て来られて、これが亭主だと云われたところで――困ったんだろう」
 母の存命中、二人は率直な性質から誰の目にもわかるような口争いをよくしたが、亡くなった後は、常に尊敬をもって母のことは語っていた。林町の家で何か持って歩きながら、思い出したように、
「可愛い細君だった」
と云っていたことがあった。父は母の若い頃の辛抱に対して、自身の晩年の忍耐を捧げていたのだと思われる。
 父は自分達の永い結婚生活の回想から、おのずと私の身の上に思いが向かったらしくて、
「それにつけても実にお前は可哀そうだと思うよ」
と云った。
「よくそうやって、いつもにこにこしていられる」
 私は何と答えたらいいのだろう。暫く黙っていたが、
「だって、ここにはこういう相当なお皿があるでしょう?」
 半ばふざけにまぎらして私は、大きい長椅子の上に向い合って足をのばしている父をさし、さて、
「あっちには」
と、本当の方角はどこか分らないが東京らしい方角をさした。
「ああいう人がいるでしょう? 私は或る意味で娘冥加だし女房冥加だと云えると思っているのよ」
 父が亡くなって通夜の晩、妹が、今お姉様とても読む気がしないかもしれないけど、お父様がお姉様にあげるんだって病院でお書きになった詩があるのよ、と云った。父はその英語の詩を書いてどうせ私に読めないだろうから、そこに使ってある字へ皆すじを引いた字引も一緒に入れてやれと云ったそうであった。私は妹にその詩というのを出して貰って見た。小判の白い平凡な書簡箋に見馴れた父の万年筆の筆蹟で、ところどころ消したり、不規則に書体を変えたり、文句を訂正したりしながら二十行の詩が書かれているのであった。
 六十九歳の父が最後のおくりもの、或は訴えとして娘の私にのこしたその詩の題は The Flower King of Honour と云うのであった。
[#地付き]〔一九三六年六月〕



底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「中央公論」
   1936(昭和11)年6月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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