た。父と娘という互の心持から云えば考えることも出来ないような力が否応なく外から働きかけて来て、自由に会えなくなったりすることのあるのを私たちは一九三二年の春このかた知った。父独得の自然でこだわらない性格から、こういうことのさけがたさ、やむを得なさとを会得し、同時にそういうやむを得ない中断によっても変えることの出来ない父娘の愛情を極く自在な形でたのしむ術をも会得して行ったのであった。
 一年前の五月九日、翌る朝から自分の境遇が激変するとも知らず、私は午後から本郷の父の家へ遊びに行った。一昨年母がなくなってからここには父と弟夫婦と妹とが暮している。生れて半年ばかりの赤坊もいて、お祖父さんになった父は私を自分の隣りに坐らせて大賑やかに晩食をした。九時頃になったとき、私は自分宛に来ていた雑誌などを帛紗《ふくさ》に包みながら、
「さあ、そろそろ引上げようかしら」
と云った。父は、渋い赤がちの壁紙を張った食堂の隅の安楽椅子にくつろいで、横顔をスタンドの明りに照らし出されていたが、
「なあんだ、泊って行くんじゃなかったのかい」
と如何にも不本意げに云った。
「帰ったって誰もいやしないじゃないか。泊っといで! 泊っといで!」
 手をのばして、椅子のわきに立っていた私の手を執った。
「真暗なところへ帰ったってしようがないだろう?」
「うん――でもね、明日の朝までに書いてしまわなけりゃならないものがあるの」
 手を執られたまま私は椅子をまわって父の足もとにあった低い足台に腰かけた。薄綿のどてらを着た父の膝に半ばもたれるように腕をおき、しばらく喋って私は、
「じゃまた十三日にね」
と今度こそ帰る気で立ち上った。母の命日が六月十三であった。一家揃って食事をする好い機会として父と私、そして家じゅうの者が毎月十三日、夜か昼かにきっと時間をあけておくようにしているのであった。
 父は、十三日にねという私の挨拶には直ぐ答えず、口を大きくへの字形にして悲しそうな八の字に房毛の出た眉毛を顰めながら頭をゆるくふり動かした。これは父の特徴ある身振りの一つで、気の毒な話を聞いたとき、悲しいような心持になった時、よくやるのであった。今の場合、その表情に半分のふざけた誇張が混っているのはよくわかって私は笑いながら、
「駄目よ、駄目よ」
 あわてて拒絶する恰好をした。そして一寸真面目な親しさにかえり、
「お父様だって私ぐらいの時分は、やっぱり仕事、仕事だったにきまっているくせに――」
 そして、改めて、
「左様なら」
 私はお辞儀の代りにまだそこに腰かけたままでいる父の八分どおり白い髪の毛で縁どられた頭に軽く自分の頬をふれた。父の頭は大きくて、暖かく禿げていて、体温にとけ和らげられたオー・ド・キニーヌの匂いがいつも微かにしているのであった。
 これが最後で、会わない八ヵ月の後、父は不意に、しかも日頃私が一番心配し、また避けたく思っていた事情の下で生涯を終った。母を一昨年失った時にも、私は不自由な生活に置かれていた。しかし、母のときと、今度父に死なれたのとでは、私の心持に大変ちがいがある。そのことは惶しい葬儀の取込みの間にも実にはっきり感じられた。母のとき、私は何よりも父を落胆させまいとして、始終気を張り、心臓に氷嚢を当てながらも喪の礼装を解かずにがんばり通した。当時私の心持を支配する他の理由もあって、私は涙も出ず、折々白いハンカチーフで洟をかむ父の側にひかえていた。
 一月三十日の夜かえって、人出入りのはげしい二階座敷に、父がふだん寝ていると余り違わない様子で黒羽二重の紋服をさかしまにかけられて横わっている顔を眺めた時、やっぱり私には涙が出なかった。けれども、棺をいよいよ閉じるという時、私は自分を制せられなくなって涙で顔じゅうを濡らし激しく慟哭した。可愛い、可愛いお父様。その言葉が思わず途切れ途切れに私の唇からほとばしった。どうも御苦労様でした、そういう感動が私の体じゅうを震わすのであったが、物々しい儀式の空気に制せられてそれは表現されなかった。
 父は建築家としての活動にまめであった。且つ、建築家という一つの専門技術家の立場を、今日の社会の組立ての中で出来るだけ高めて行こうとする努力においてもまめであった。それらのことは父の葬儀の式場で、弔辞としても読み上げられた。併しながら、父が一人の父として、燦きのある暖い水のように豊富自由であり、相手を活かす愛情の能力をもち、而もそういう天賦の能力について殆どまとまった自意識を持たなかった程、天真爛漫であった自然の美しさについて、心から讚歎を禁じることの出来ないのは恐らく我々肉親の子ら、その中でも最も複雑微妙な情愛に結ばれて、謂わば諸共に人生の幾峠かを踰え終せたような娘の一人である私の心持ではないであろうか。ただ可愛がられる娘、父を
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