、どんな模様の繍をするにも、決して一本の針しか使いません。その上、如何程見事な繍いとりを仕ようが、それがちゃんと出来上ってしまう迄は、たとい頼んだ人にでも、仕事の有様は見せませんでした。そして、あんな貧乏だのに御礼に金はどうしても貰わず、ただ、よい布と美しい絹糸を下さいというばかりなのです。お婆さんの家へ行くと、いつも鼠やげじげじが、まるで人間のように遊んでいるのも、皆には気味が悪かったのでしょう。
 一本針の婆さんの処では、滅多によその人の声がしませんでした。けれども、目の覚めるような色の布と糸とで、燈光《あかり》をつけないでも夜部屋の隅々がぽうと明るい程でした。
 赤鼻の、大眼鏡の、青頭巾の婆さんは、朝から晩までその裡で繍をしているのです。
 ところが或る時のこと、町じゅうの人を喫驚《びっくり》させることが起りました。それはほかでもない、春の朗かな或る朝、人々が朝の挨拶を交しながら元気よく表の戸や窓を開けていると、遙か向うの山の城の方から、白馬に騎り、緋の旗を翻した一隊の人々が町に入って来、家もあろうに、一本針の婆さんの処へ止ったというのです。
 頭に鳥毛飾りの帽子をかぶり、錦のマ
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