をつくってゆくだろう。
現実を知るということ、または大人になったということを、このものわかりよさに屈伏した内容でいうひとの多いことを、私たちはまじめにとりあげなければならないと思う。
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*
みんな
ふり出しでは、清浄であった
一生懸命であった
みんな中休みでは、まだ
人生の希望をすてなかった
みんなふり出しでは、健康であった
心も、正しかった
みんな、中休みではまだ
自分のコースを話し合って
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(「人生のダイス」竹内てるよ)
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けれども、自分のダイスがコースをはなれてゆくにつれて、ものわかりよさに敗北してそれに導かれた日常に身をおくと、かつて自分も清浄なふり出しをもったことをせめてものよろこびとする人たちより、それは若かったから、と自嘲して見る人の方が多い。そして、今なお、一生懸命にふり出した時の希望をすてず、悪戦し苦闘している女の仲間を、憫然らしく流し目にみる。ものわかりのわるい人たちとしてみる。
若さを喪失することにある悪は、フランスの貴族的な女詩人マダム・ノアイユが詠歎したような哲学的な哀愁ではなくて、きわめて現実に人間の善意に対して無反応になったり、嘲笑的になったりすることである。
どうせこんなものといってしまえば、その人がこの人生に存在する意味さえも失われる。どうせこんなもの、という投げかたは、人生に対する一番傲慢な卑屈さであると思う。
人は一人一人に複雑な性格や肉体の条件をもっているのだから、どのひとの一生も、不屈であるというわけにゆかず、あらゆる青春が歴史の推進の中軸に立つことはできない。あるとき、心ならずものわかりよさに敗けたとして、私たちはやはり明瞭に自分をごまかさずその敗北を認め、その中での努力をおしまず、善戦をつづけている人々への喝采と励しとその功績を評価するにやぶさかでない精神をもたなければならない。
今日、ものわかりよさは、そこまでの歴史性に歩み出しているべきではないだろうか。
女の一応のものわかりよさは、時に醜いことがある。近頃は、情勢の変化につれて、女のひとのなかにもいろいろ役所関係との接触を多くもつひとが出てきている。そういう役人の一人が、ある一夕何人かの指導的な婦人たちを招待して、意見交換ということをした。そのとき一
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