として理解する心は持っている。オルゼシュコというポーランドの婦人作家の書いた「寡婦マルタ」をよめば、良人に全生活を庇護されてゆくように、その幸福を飾る花であることを目的としたまとまりないいわゆる淑女の教養きり身につけていない善良で気品ある女が、いったん逆境に陥って燃える母の心から終に馬車のわだちの下で命をおとす悲劇を、自分の妻には絶対にあらせまいとねがうであろう。ちゃんとした職業教育は女にも必要であると思う。
その気持はそれとして偽りのものではないが、しかしながら、今日わが生活の現実として、仕事をもっている妻を想うと、そこに何か家庭らしさに混りものがはさまったように、何か本当の家庭になりきらないものがあるように思う気分が湧くことも、多くの男のひとたちは否定しまい。
友達には仕事のある女のひとがよいけれど、妻には困るという感情はかなりいまだに普遍性をもっている。
たとえどんな仕事にしろ、二十二三歳である社会的な水準まで達することはほとんど不可能であるから、この人生に真摯な心で向っている若い女性たちほど、いわば自分の人生への愛と、異性への愛とに苦しんでいると思う。もしそれが正しい扉にふれてうち開かれれば、その奥には我からおもはゆいばかり咲かんとして期待にみちた花園のあることを知っているのに、仕事もすてたくないという単純な女の希望のために、そんな花園のかくされていることはもとより、ひとなみの程度の女らしささえ欠けているように見られたりすることは、若い女のひとにとって何たるくちおしさだろう。
ものわかりよさの陰翳は、こういう瞬間に女の心にさしこんで来る。私が人生にもとめているのは我ままなのだろうか。そういう謙遜の表現で、忍びこんで来る。人間につまり大切なのは、仕事の上の野心だろうか、つつましい日常の愛だろうか。そのように現実をはなれた観念の上での対比をもとって現れて来る。はたして私にはそれだけの摩擦にたえるだけの、たえてゆくだけの才能があるかしら、そういう否定に立った問いかけもきこえて来る。
これらのさまざまの声々の底には、女というものはしかじか、女の幸福はしかじか、という定型へのものわかりよさ、困難をさけようとするときのおのずからなるものわかりよさが、作用しているのである。
愛すべき若い人生のどの位の部分が、この悲しいものわかりよさをのりこえて自身の成長の歴史
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