人のひとが、割合ふだんのままの気持で日頃から思っているままの意見を、女の生活の改善という立場から話した。そしたら、その婦人たちのなかでも主だった人と目されている一人が傍の友達に次のようにいったそうだ。あの人は、こんなにして御馳走になっているのに、それに対してああいうことをしゃべるのは失礼だ。気をつけるようにいっておあげなさい、と。わずか一円か二円の食事を御馳走といい、そういう御馳走にあずかった以上、対手のお気にかなうように振舞わなければならないというそのひとのものわかりよさは、何と清潔でないだろう。餌をまかれてそれに支配されて来た男たちの游泳術を、それなりに追随したものわかりよさを、女も社会に出るにつけて身につけてゆくというばかりでは、あまり悲しくはないだろうか。男の世界では同じ餌にしろ大きく、游泳のゴールも華々しいということがあるが、女の場合、御馳走の程度も男仲間のいわゆる饗応とは桁がちがい、そのようにしてゆきつくゴールははたしてどこにあるのだろう。あとには、よごれたものわかりよさだけがそのひとの身と女の歴史とに重ねられてゆくばかりとしたら。
今日では、個人を超脱した何かより高いもののように仮装されがちな皮相なものわかりのよさが、女の実質をたかめるものでないことを理解するところまで、ものわかりよくならねばなるまい。外からこうしろといわれ、そうしていれば無事だからというものわかりよさから、そうしながらも、何故そのような要求がされるのかそれを知ろうとする心をすてないものわかりよさ、そういうものわかりよさを女の成長のモメントとしてつかまなければならないと思う。
世界で一番きたない本はバイブルである、という意味のニーチェの言葉が警句というより深い意味をもっているとすれば、それはガリレオ・ガリレーの生涯やホーソンの「緋文字」を見てもわかるとおり、どっさりの人類の叡智や生命や愛が、その一冊の分厚い本の頁のあけたてによって殺戮されてきたからである。常識の中に、浄きいかりを腐らしたからであると思う。
女のいつわりない女心は、ものわかりよさが腐臭を放っていることをよろこばないのである。
[#地付き]〔一九四〇年十月〕
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親
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