こで、どんな理由で、何分おくれているのかということに就ては全然知っていなかった。待っている人々と彼等との違いは、ただ彼等はちっともそれについて心配していないことと、呑気に立って喋舌《しゃべ》っていて、相当頻繁にこそこそと入場券購入許可証とゴム印を捺した紙片をもって来る人を、出口から乗車フォームへ通してやっていることだけである。
姫路その他の駅でも感じていた運輸事務能力の低さ、無智な不親切さが、このときも身に沁みた。
思えば愕《おどろ》くべきことだが、日本の鉄道省は、各駅間の無電連絡を一つも持っていないのではなかろうか。
事務室で、チリチリとベルが鳴り、係員がハアハア、ハアハア、と一種の玄人らしさで返事している、あのデンワで、この多忙、繁雑、非能率な国鉄運営の難事業を処理しているのではないだろうか。
各種の軍事施設は、おそらく優秀なラジオをもっていたろうと思われる。憲兵隊のようなところも、同様であったに違いない。そこにあったラジオの設備を、せめて運輸事務の改善のために活用することは出来ないものなのだろうか。そして、食糧の輸送に一つの強味を加えることは出来ないものだろうか。
各地の警察連絡にはラジオが利用されるが、鉄道にはそれが利用しようともされていないというのが、今日でも、日本の現状であるのだろうか。
わたしは全波のラジオが早く聴きたい。破産しても支払えないほどの金を払わないでも、聴けるように日本の生産技術が進んで欲しいと思う。
ラジオただ一つをとってさえ、わたしたちの今日の生活における様々な可能性と、それを実現する手段との間には、これだけ巨大な開きが存在している。可能性が、単に可能性として止っているなら、やがてそれは可能性でさえなくなってしまう。何故なら、可能性というのは、その実現に努力献身し、その結実を確保する、という条件があって、はじめて人間生活の貴重な現実的モメントとなって来るからである。わたし達は、自分達が真に勤勉であり、進歩の実現に対して真実の努力を傾けつつあるか、ということについては、鋭い自省をもたなければならないと思う。可能性があるとき、それを実質のある現実のものとする努力を怠れば、それはもう私たち各自が、自分を責めなければならない懈怠と云われるべきなのである。[#地付き]〔一九四六年一月〕
底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本
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