ひな勇はん
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)お妙《タエ》

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(例)□[#「□」に「(一字不明)」の注記]
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 いつでも黒い被衣を着て切下げて居た祖母と京都に行って居たのは丁度六月末池の水草に白い豆の様な花のポツリポツリと見え始める頃から紫陽花のあせる頃までで私にはかなり長い旅であった。祖母の弟の家にやっかいになって居てすっかり京都式にその日その日と暮して居た。夜のはなやかな祇園のそばに家があったんで夜がかなり更けるまでなまめいた女の声、太鼓や三味の響が聞えて居る中でまるで極楽にでも行く様な気持で音の中につつまれて眠りについたのは私には忘られないほどうれしい、気持のいいねつき様であった。大きなリボンを蝶々の様にかけて大形の友禅の着物に帯は赤か紫ときまって居た。どんな□[#「□」に「(一字不明)」の注記]時でも足袋は祖母の云いつけではかせられ新らしい雪駄に赤い緒のすがったのをはいて居た。そんな華な私の好きらしい暮し方をして居る内に一人の私より一つ年上の舞子と御友達になった。名は雛勇本名は山崎のお妙《タエ》チャンと云う子だった。純京都式の眉のまんまるくすりつけてあるひたえのせまい、髪の濃い口のショッピリとした女だった。私はおたえちゃんと呼んで見たりうろ覚えに「雛勇はん」と呼んであとで笑ったりして居た。「お百合ちゃん」私はいつでも斯う京都に行ってからは呼ばれて居た。お妙ちゃんの家は私達の居た家から三軒ほど北にあった、格子で高いポックリの鈴のついたのが一っぱいならべてある御神燈のつってある――こんなものを見つけない私にはたまらないほどこう云う様子の家がうれしかった。お友達がないんだからこんな事を云ってとがめもされなかったもんで、ひまさえあればその格子をチアランと云わせながら「お妙ちゃんは? 雛勇さんは?」こんな事を云ってぽっくりの群の中に雪駄が妙に見える様に濃化粧に唐人まげに云[#「云」に「(ママ)」の注記]ったなまめいた人の群に言葉から様子までまるで異った私がポツンとはさまって――それでも仲よく遊んだり話をしたりした。私が土間に立って斯う云うと、
「早う御上り、今日は昨日よりちとおそい□[#「□」に「(一字不明)」の注記]御出や」お妙ちゃんは二階から斯う云いながら二人か三人のほうばいと一緒に長い袂を肩にかついで下りて来るのが常だった。そしてその人達にとりまかれてお妙ちゃんの手につかまってみがき込んだ階子を一段ずつ歩みしめて上ってお妙ちゃん、御きいちゃん、御ゆきちゃんこんな人達の居る部屋に行った。天井から薬玉が下って畳に引くほど太いうちひもが色々な色に美くしく下って居る。どんな時に行っても白い小猫が緋縮緬の銀の鈴のついたくびわをはめてその時[#「時」に「ママ」の注記]にじゃれて居る。赤い八二重の被のかかった鏡台の前には白粉の瓶、紅、はけ、こんなものがなつかしい香りをはなして三つも四つも並べてあった。黒ぬりの衣裄には友禅の長襦袢や振袖やたまにはさぞ重いだろうと思う様な大変な帯もかかって居る事があった。こんな何となくうきうきした部屋にはいつでも日がよくあたって居た。ホカホカとした光線が柱によりかかって猫をじゃらして居る人の半面をすき通るようにてらしたり八二重の鏡かけが動きだしはしまいかと思うほどういて見える時には私はいつでも日のとどかないところからお妙ちゃんと二人で手をにぎりあってジーッと見つめて居た。
「東京の話してちょうだい」
 私のコロッとした指を一本一本ひっぱりながらよくそう云った。
「話すよかもよっぽどつまらないとこだワ、こんな加茂川もなければ都踊りだってなし私東京よりよっぽどここの方がすき」青いたたみを見つめながら斯う云うのを、
「うまい事云うてなはる、そんな事云わんと教えてちょうだい」こんな事をみんなから云われて私はなるたけ奇麗なところところを選んで話した、「あんたは話しが上手やさかい――ほんまに目の前に見えるようや、そうやけ」こんな事を話をさせてはお妙ちゃんが云って居た。そんなにしゃべったりふざけたりしたのは三度ほど行った時の事で、始めてそう云う家に入った時の何となし嬉しい様な恐ろしい様な私は大形のメリンスの着物の袂をキッシリとつかみながら土間に立った。そこへかおを出したお妙ちゃんは、
「マアマアほんまにようきなはった早う御上り、まってたのやから」こう云って私の手をひっぱった。うしお染の横きりの細形の体にはたまらなく似合うのを着てまっかな帯をダラリと猫じゃらしに結んでチャンと御化粧がしてあった。こんな処で見るよりも倍も美くしい様子のお妙ちゃんにひっぱられたまんま三味線や鼓や太鼓のどっさりかけてある部屋を通った、そこには眉の青い丸まげの女が坐っていた。
 その女は私のかおを見るともう前あいから知って居る様に軽々すべる様な京言葉でいろんな御あいそを云った。私は袂の先をひっぱりながらだまって笑って居た。そして二階の部屋につれてかれたのだけれ共何となく気がさす様な風で二人きりでお妙ちゃんとする様な話は出来なかった。じきに私は雪駄をつっかけて出てしまった。「もうあんな事[#「事」に「ママ」の注記]へ行くまい二人きりであの橋のわきで話してた方がいいんだもの」道々こんな事を考えて歩いて居た。その夜私はどうした訳か鏡台の赤い被いが目についてどうしても早くねつかれなかった。
 朝目が覚めるとすぐ「今日も行って見よう、一日中ぼんやりしてはとうてい居られないからそれにお妙ちゃんに会いたいしするから」斯んな事を思って御飯をたべてきのうと同じ着物をきてきのうよりはよっぽど大胆に「お妙ちゃんは?」って云う事が出来た。二階でお妙ちゃんは朝化粧をして居た。私はその後に立って鏡の中の雛勇はんの何とも云われないほどきれいなふっくらした胸のたたりとまっかな襦袢の袖の胸を被って居るのを見て居た。お妙ちゃんは時々手をやめては、器用に顔の形を変えて、「これがマア」と云われる様なおどけた様子をして見せた。そんな事に大きなびっくりするほどの声で笑いながら御化粧がすむのをまって居た。白い猫をからかって居る間に雛勇はんは後に来て私の髪の毛と自分の髪をより合わせて居た。私はそれにどんな意味があるかと云う事も知って居たんでしらんぷりをして後を向いて居た。「嬉しい!」お妙ちゃんが小さい声でこう云った時私はしずかに後をむいた。「私も嬉しいわお妙ちゃん」笑いながらこんな事を云った。「マア、あんたはん知っておいでやはるの、こんな事……」私はだまってその張のある目のパッとひらいたのを見て居た。
「マア、そんな事どうでもいいでしょう、ほかの人どうして?」「外の人寝坊やさかえ御ふろに行ったのや」「きのう来た時何だか変で一寸も話が出来やしなかった、今日長く居ていい?」「かまわんワ一日居ても、でも夕方から座に行かにゃならんさかえ」
「でもおととい出たばかりだって……」
「そうや、あの角の蝶吉はんがやすみなはったさかえ、番になったのや」
「今夜どんな着物着るの?」「あのいつもの、……けど色が今夜は水色の方を着るのや、裾が一寸あわんで気がもめるけど……」「用ないの?」「あとで一寸かあはんにさろうてもらうのやけど今日はあっちに行くからいいの……」「誰か帰って来ないうちに二人きりほかきかしたくない話があったらしちまわない?」「あんまりありすぎるやさかえ……でもわて東京のいとはんに会ったのあんたがはじめてやさかえうれしいワ、ほんと……けどあんまり早口やさかえ話が分らん事もあるワ、けど……こんなに今仲ようしててもあんた東京に帰っておしまいやはったらもう、ここ一足はなれたらサッパリ忘れて御仕舞やはるやろナ」「何故そんな事ってあるもんですか忘れるほど一寸っかつきあわない人には私の思って居る事なんかはなさないから――いつまでも仲よくしてられますとも東京に帰っても、――どこのはてまで行ってもさ」「でも不安心や、何だか忘れて御仕まいやはりそうで――そん事の悲しい事思うと今でも涙がほんまにポロリー、ポロリってこぼれるワナ」「そんなら一っそ起請文書いて小指を切ろうかしら」「それもいいやろ、けど笑われるワナ、そなような事したら御座敷に出て笑われるやろキット……」「はく情な事でもどうせそんな事しないからいいけど……。一寸会っただけでどうしてこんなに仲よくなったのかしらん……」「神さんの御ひき会せや、二人で御礼参りに行ってきやはらない、じきそこやさかえ、これまで毎朝御参りして居たの……」「何故やめてしまったの行ってればいいのに――」「もういいのやきまってしもうたのや」「何がきまったの? 私ちっとも分りゃしない、一人でうれしがってたって――」「云わんほがはなや……分っとるくせしてあかん人や……」お妙ちゃんは溢れそうに笑いながら長い袂で私を打つふりをする。
 私達は二人でお互によっかかりっこをしながらこんなとりとめもない、そして美くしい気持で薬玉の方や小猫や白粉の瓶や、そんなものを見ながらはなし合って居た。すじ向いの家で二絃琴を弾いて居る。お妙ちゃんはそれにかるい調子で合わせて居たがフッとだまって私の横がおをジーッとまばたきもしないで見つめて居る。「ドうして? 何んかくっついてる?」私はこんな事をきいた。「どうもせんけど……別れてしもうた時よく思い出せる様によく見とくのや……その方がいい思うてナ」「だってまだ七月の今日十六日ですもん九月の中頃でなくっちゃあ帰りゃあしないんだもの……。若しあんまり二人で別れんのがつらかったら京都の娘になっちまいましょう、ネ、そうすりゃあいいんだもの下らない事考えっこなし……」
「ほんまに……考えん方がいいのやけど、わての仲ようする人は皆早うどこぞへ行ってしもうたりどうでも別れにゃあならん様な人ばっかりやさかえ、妙なと思うてナ、それだから私が又あんたもと思うのや……」
 なりに似合わないシンミリした声でお妙ちゃんは云って居た。こんな人達にあり勝な何となくうきうきしたパッとしたとこは少なくてしんみりと内気な娘と話して居るのと少しもちがった事はない。
「貴方割合にうち気な方だ事どうしてでしょう?」「そうやナ、だれでもそう云いやはるさかえ自分でもなぜやろと思うとってもわからんさかえ……母はんもよくして下はるし皆可愛がって御呉れやはるけど…………生れつきやろ、キット……でもいいワナ、あんたさえしっかり覚えて御呉れやはれば……忘られそうに思われてならんのエ」「どうしてそんな事思うの? おやめなさいよ、キッと忘れやしないから、私死ぬまで覚えてるわキット、若し死んじゃったらその後の事が覚[#「覚」に「(ママ)」の注記]らないから覚えてるんだかそうじゃあないんだかわからないからしようがないとしてネ」「ほんまにあんたをたよりにしてるのやさかえ」
 雛勇はんはこんなしめっぽい事を云って居る、その横がおは、瞳をよそに動かしたくないほどの美くしさで日光をうしろからうけてまっしろなかおのりんかくはうすバラ色にポーッとにおって居る。紫色にキラキラ光る沢山の髪、私は絵の――浮世絵の中からうき出した人を見る様な気持で居た。
 フッと何と云う事なしにかるいほほ笑みが私の頬にのぼった。「今日はいい日だ事、いつもよりしずかで――そいでだあれも居なくってネエ」
「いい日や気がボーッとするほどのびやかな日……こうやって二人きりで……」
 何となくそのまんま聞きすててしまいたくない様ないい調子でこんな事を云って私の手をとって自分のかおにおっつけてしまった。
「アラきたなくなりゃしないかしら」ひょっとこう思ったけれ共細い手でもっておさえて居るのを――と思ってそのまんまそうっとされるまんまになって居た。私の手にはこまっかいすべすべしたにおやかな肌がひったりとついて居る。そしてそのやわらかさも暖ったかみもすぐにじかに私の手に感じて居る。私はお妙ちゃんと同じ早さに息をしてかるくつぶって居る長いまつ毛をつめた、紫の細かいつぶで出来て居る
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