た。私はもうこれっきりと思って東京にかえる着物を着て一番よく見える所をと選んで座った。幕のあく前にお妙ちゃんは私のところに来てジッとひざにもたれかかって居た。もう舞台着をつけて居た。私はそのえり足、うす赤い耳たぼそう云うものを見て居るとたまらないほど涙が出て来た。人に見られまいと私はいろいろ苦心して出たくもないあくびをしたりして居た。やがて楽屋の用意が出来たしらせがあるとお妙ちゃんは長い袂の中から紫の縮緬のふくさに包んだ小さなしかし中のなつかしそうなものを出して「またいつ逢うか……それまでの御かたみや」小さい声でこう云って居た。私も大急ぎで懐の中のはこせこを出して中に入って居た紙くずなんかぬいてそっと紫のふくさの入って居た袂に入れた。紫地に花鳥を縫いつぶしたはこせこと紙入れをかねて居る様なものだった。お妙ちゃんはそれをそうっと抱きあげてしっかりと抱えながら私の目を見つめて居たが急に「お忘れやはるナ」こう云って狂った様にかんざしのかざりをふるわせて走[#「走」に「(ママ)」の注記]けて行ってしまった。幕があいた時まんなか頃にお妙ちゃんは立って居た。一つ体を動かすにも一つ手を働かせるにもその時々になげる視線にかなしく、震えながらそそがれて居た。
 幕が下りるまで私はお妙ちゃんのあのあわれげな視線をうけて居る事が出来るかしらこう思いながら、見られればキッとこっちからもそれに答える心持をもって居た。苦しい、悲しい、重い、何とも云えない気持の中に幕がおりた。私は、お妙ちゃんにも一度会ってからにしようかそれともやめようかと思って大変に迷ったけれ共とうとう又楽屋うらのうす暗いとこで「雛勇さんに楽屋下でまってるって云つ[#「つ」に「(ママ)」の注記]男にたのんでぽっくりの音の来るのを今か今かとまって居た。間もなく、パタパタとなまめいた草履の音がきこえて私の胸にはお妙ちゃんがよっかかって居た。ぽっくりがどうしたんだか目っからないでやたらに手間どるから草履のまんまで来たんだと小さいおどったふるえた声で云った。「忘れないで忘れないで」互に只夢の様な気持でくり返した。どっかの時計はもう十一時をうって祖母は私に早くおし早くおしとせきたてて居る。「お妙ちゃん」私はもう涙のいっぱいたまった声で小さくよんだ。
「お百合ちゃん――ほんまにお忘れやはるナ、わてはナ、死んでもおぼえてまっせ□□[#「□□」に「(二字不明)」の注記]ナ、お百合ちゃん、キット、あれはなくさずに持って居てナ、わてこれは死んだら棺の中まで入れてもらいますさかえ……」お妙ちゃんはもう氷りかたまった様な声で斯う云って闇をすかす様にしてしばらく私のかおを見つめて居たが急にクルリと向きなおって暗の中へ――楽屋の方へ行ってしまった。「お百合ちゃん」耳のせいか何かかすかに私の耳にひびいた。私ももうどうにもこうにもならない様になって紫のふくさを抱いて祖母をせきたてて列車にのりこんでしまった。私は自分の体が汽車にのって居ると云う事はどうしても信じられなかった、ましてあんなに仲よくして居たお妙ちゃんを一人おいて来たとは――いくら考えても思われなかった。けれども早い勢でとんで居る列車は段々私をそう信じさせてしまった。私も又それを信じないわけには行かなかった。うすっくらい寝台車の中で私は涙を又新らしくポロポロこぼしながらふるえる指さきでしっかり結んである紫ふくさの結び目をといた。中からはなお私の涙を誘い出す様な青く、まっさおく光る青貝の螺鈿の小箱があった。私がよくこれを見るとこの角々をなで廻しながら「マア、ほんまに何とえい箱やろ、わて心中しようとまで思う人でなければあげんのえ」こんな事を云って居た箱だった。私はその青貝のまっさおの光の上をソーッとなでながら夜の白むまでまんじりともしなかった。斯うして新橋におろされた私は久しぶりでせわしい目まぐるしい様子を見ながらもお妙ちゃんの事を思わずには居られなかった。家に帰った。すぐ私はお妙ちゃんのところへわざわざきれいなのをそろえて手紙を出した。細い細い心書きで書いて三ひろほどもそれを私は目を涙でひからせて投げ込んだ。五日立った日に返事が来た。クモのあの銀色の糸のおののきの様なかすかにはかなくそして又ないほど美くしい――、そうした気持のする返事であった、字一字の間にもあの赤い色と白粉の香りはしみ込んで居る様に思われた。四日にあげず手紙をやりとりして居た。時には只一輪なでしこを封じ込めたのもあった。時には読みつかれるほど書いたのもあった。どれでも、どんなんでも皆私にはこの上なくうれしいたよりであった。
 今年の秋の淋しさと云ったら――私はまるで病んで居る様に只淋しい気持が自分で可愛そうな様になった、それでも遠くに分れて居る私達は思ったまんまを手紙に書いてはなぐさめあって居た
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