明)」の注記]きんの母はんが下に呼んでお云いやはった事だワ、あんまりお百合ちゃんと仲よくして居ると変に思う人があるといけないってナ云ってやはるさかえ『何が変やろ』云うたらナ母はんがお怒りやしたのけど一寸もわけが分らんさかえ考えてるのやー」
 こんな事をお妙ちゃんはいかにも心配そうに大切そうに云って居る。「そんな事、何でもない事なんでしょう。気にそんなにかけずといいじゃあないの、私達どうしたって今仲悪くなる事は出来ないんですもん」こんな事を云ってほかの人達と雷落しや話しっくらだのって下らない事をしてさわいだ。御妙ちゃんのたんすの上の花びんにまっしろなてっぽう百合がいかって居た。四時頃何とか云う茶屋からかかって行かなくっちゃあならないと云って着物を着かえたりなんかしながらも「お百合ちゃんお百合ちゃん」をくり返して居た。私は一緒にそのお茶屋の一町手前まで送って行った。毎日毎日私の頭ん中には「お妙ちゃん、雛勇はん」こう云う名でもってみたされて居た。ひまさえあれば一緒に何でもをして居た。お妙ちゃんの出る時には毎日でも踊見に出かけた。そうしては暗い夜道を二人で歩くのがこの上もないたのしみな事だった。そんな事をして八月も中頃になった。祖母は時に思い出した様に折々「帰ろうかネーもう随分居たんだから――」こんな事を云って居たけれ共私は懸命にもっと居る様に居る様にとすすめて居た。祖母は九月の十日頃には帰ろう、こんな事をもうちゃんときめてしまって私にもうどうにもならない様になってから云いわたされた。八月の二十九日頃であった。私のかお色はキットどうかなったに違いないけれどもジーッと祖母の瞳を見つめて居たが急に家をとび出してお妙ちゃんのところに行った。この頃私はもうじきどうしても帰らなくっちゃあならない時が近づいた様な気がして居たんでどんな事のあった日にでも一日に一度はキットお妙ちゃんの家に行って居た。用事もないらしいのんきなかおをして居るのを見ては「マアよかった、まだ帰るには間があるらしい」と思って安心して居るらしく私には思われて居た。よろこんで居るのに――と思うとどうしても私は云い出す事が出来なかった。二人は手を握りあってしずかな真昼の空気の中にひたって居た。「あのネ、おたえちゃん、私が若し帰るとすると帰る日なんか前っからきまった方がいい、それともその前の日ぐらい急にきいた方がいい、どちら?」何でもなさそうな様子で私はたずねた。「そうやなあ、いつきいても悲しい事やけど――前へ久しい時にきいた方がいいと思うワ、思うだけの事が出来るから……」こんな事をお妙ちゃんは深い考えもなくって答えて呉れた。私は私がどうにも斯うにもならない様な重い曇った気持をわざとかくす様に押し出す様な笑い方をして見たりわざと下らないじょうだんをしたりして家に帰る時には涙をこぼして居た。まるで見もしらない舞姫なんかとどうしてこんな涙の出るほど別れるのがいやになったんだろう、どうして仲がよくなったんだろう、そんな事を考えながら私はポロポロと涙をこぼして居た。翌朝私は目を覚すとすぐ行こうかとも思ったけれ共どうしてもその気になれないのでお互に気のせかせかして居る時の方が却って好いと思ったんでわざと三時すぎにお妙ちゃんの家に行った。丁度御化粧のおしまいになったばっかりの時であった。私とお妙ちゃんとはだまって座って居る、そして二人とも涙をこぼして居る。お妙ちゃんも一言も云わず私もだまって居る。
「でもマア、悲しいけどよう教えて御呉れやはった」
 お妙ちゃんは消えそうな声でこんな事を云って居た。私は私が自分のはれものにさわるよりなおおそろしくその結果の思いやられて居た割にお妙ちゃんがはっきりして居て呉れたと云う事は幾分かあてがはずれた様な気もするけれ共思ってることをこらえて見るんだろうと思うとあからさまに表わされたよりはるかに私の心には深く鋭く感じて居た。その日お妙ちゃんはただ「忘れないで呉れ、忘れないで呉れ」とくり返して居た。そして出がかかるまで何にもしないで二人で手を握りあって居た。
 その翌日もその翌日も、私はお妙ちゃんのところへ行った。
 私達は前の様にしゃべったりふざけたりはしずだまって手を握り合ってもたれあってそして時々互に涙をこぼしたりつかれた様なほほ笑みをかわしたりして居た。そうして人間の力でどうする事も出来ない時は私達の別れる時を段々迫らして来た。そして私達がそれを思って身ぶるいをして居る九月の九日になってしまった。朝起きぬけから二人は一緒に居た。そうして長い間話しもしず御飯もたべず只御互の手をなでて見たりしっとりとうるんだ瞳を見つめあって居たり頬ずりをして見たりそうして夜になってしまった。私達は十一時半の列車でたつ事になって居た。そしてその晩はお妙ちゃんは都踊りに出る日だっ
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