とに明日を輝かすものでない場合が少くない。ドストイェフスキーがこんなに流布していることと、そのような商業出版の理由を考えようとしないで、読者はドストイェフスキーをよまされ、その日本的変種まで批判なしにうけとらされている。ジイドにしても、このことはいえる。これまで一部の人の手本としてもちまわられた外国文学は、きょうまた商業主義出版で歪められている。バルザックについての評論、ノートその他は、たとえ完全なものでないにしろ、『歌声よ おこれ』にはいっていたものが大体この本にとりいれられたについては、わけがある。「歌声よ おこれ」その他は八月十五日のあと、わたしたち日本の人民が、苦しく圧えられていた体と心との全体のあがきをとりもどして、新鮮溌溂な民主的社会とその文学の建設に歩み出そうとする黎明に向ってのよびかけであった。それらの声は決してわたし一人の声ではなかった。こだまは四方にあった。そして、一九四七年の夏に解放社から『歌声よ おこれ』という本になって出版されたものを見たとき、わたしは切ない心持になった。その本は、手ちがいのために、ひどく紙質も粗悪であったし、頁のくみちがえもあった。書籍として
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