かれ、ことなかれと時代から時代へぬき足してすべりこんでいる。人類は、そんな卑劣な生存ではない。リアリティーはゴム製人形の陳列棚ではない。生きる情熱は、よかれあしかれ、しぶきをあげて波うち、激し、鎮静し、その過程に何らかの高貴さを発現するものである。
伝記というものも、こういう歴史そのものの本質に立つ以上、ある人の身の上にただこれこれしかじかの事件が起った、よくそれに耐え、それを凌いだ、云々という訓話的記述であってはつまらない。個人の枠のなかで、どんなに詳細にそれを分析してみても、過去及びこんにちの現実にプラスすることが少いのは、ステファン・ツワイクのようなすぐれた伝記作者でも、フーシェをつまらなく書いたことでよく証明される。ツワイクはフーシェに個人的興味をよせすぎ、主観的な照明をあてすぎ、血の気のうすいものを書いた。バルザックが、彼の人間喜劇のところどころに隠見させているフーシェの方が、垣間見の姿ながら時代の生々しい環境のうちにあくどい存在そのままにとらえられていて、はるかに傑出している。
ナポレオン伝において、大革命につづく混乱期に列国の旧勢力とフランス内の旧勢力とがどのように結
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