て居た羽虫ときっと一匹ずつの羽虫の御宿をして居た花とは前の世からキッシリと何かの糸で結いつけられて居たんじゃあないかと思われた。
埋立地にて
私は、私の見たがらないいろんなきたないまわりのものをなるたけ目に入れないようにと両手で頬をおさえて左と右に見えるほしもの台やそこにかかって居る着物の色なんかを見えなくした。
そして、ひろく、はてしもなくある内海の青い色と御台場の草のみどりと白い山のような雲と、そうした気持の好いものばかりを一生県命に見つめて居る。私の目の力がいつにもまして強くなったように、向ーに、ちょっピリとうかんで居る白帆から御台場の端に人間が立って居るのまで見える。涼しい風は夕暮の色をはらんで沖から流れる潮にのって来る。「何ていいきもちなんだろう」私は大きい声で云ったら、このおだやかさとしずかさのいい気持がとんで行っちまわないかと思われた。それで小さい自分にだけきこえる声で云った。
まっさおの海の中に謎のようにある御台場のあの青草の中には蕾をもってるのも有るだろうし小っぽけな花のあるのも有るんだろう、キット。行って見たい事、前にもやしてある小舟を見てそう思いながらあのはじっこに坐って波のささやきと草の香りにつつまれて歌でもうたったらまあどんなに。
私の頭ん中にはいろんなとりとめもない空想やうれしさがわき上った。白帆が一分動いたと見ると御台場の草の色がちがって半分は黒っぽく半分は前よりもみどりになって雲の山はくずれて帯を渡したよう。帯が又きれぎれに人の形になった時には、白帆はもう見えずに汽船の煙が御婆さんの帯の色をして棚引き御台場はすっかり青く、私の居るところにはうすいかげが出来る……
こんな変りの多い、大きい、とりすましたような又不邪気な海の中に自分もとけ込んだように波が一つゆれれば自分も一つ、あっちが二つうごけば自分も二ついろんな事がみんな私と一緒に動いて居るように思われた。
私はいつにない、華な水色のような心持で越後獅子のうたをうたった。長い振の着物を着て黒い髪を桃割にでも結って居る娘のような気持で……
見ている内にいかにも夕暮らしい日光になって来た。いつの間にか前の川、鉄道の線一つを海からはなれて居る川に年とった船頭の舟が入った。入日の光をあびて赤鬼のようになった爺は舟の底から掃除の道具をとり出した。大きなブラッシのようなもの、それを水につけてはともからみよしまで丁寧に自分の可愛がっててやる馬に水をあびせる時のように、かるい心地のいい音を立てて水のしぶきをかがやかせながら洗い始めた。黄金の川面からブラッシについて落ちるしたたりは黄金のしずくのようで舟も又それと同じにかがやいて居る。黄金の舟に、黄金の水、はだかんぼうな赤鬼はその上を走り廻って居る。……まるで草紙の中の插絵のような有様を、海の色も空の様子も忘れはてて見入った。赤鬼はしばらくしてから船に腰をかけて煙草をのみながら歌をうたい出した。
「御ひょろたかアしまア、まこものーなアかでエ
あやーめさくとはー しおらしーい」
歌も古いし人も古いけれども、その歌だけは新しい力のある、いきな声である。川の面をすべって線路を越えて海のあっちの方ーへとんで行ってしまった。
その声にひきつられて自分の心もあっちの方へ行ってしまったが声の消えたと一緒になげかえされたようにはっきりした私は今更らしく、その美しい声を出した口のあんまりしわくちゃでつっぱいものをたべた時みたいにキューッとして居るのをびっくりした気持で見た。
御じいさんに見とれて居る内にすっかり日が落ちて、細いその上を指で一なでしたら消えてしまいそうな御月が、
「わたしゃ、もさっきっからここに居るのに」
と云ったようにものほしのわきにちゃんと見えて居た。
御台場はぼんやりかすみはじめて雲の山はうす紫に青い海は前よりもあおく、みちしお力づよさと、気持とがその一うねりの波間にもこもって遠い遠い沖の方から段々こっちにこっちにうねって来る。
芸人の子
「何んだ、高が芸人の子じゃあないか」
斯う云うひややかな情ない声が、まだ十二にほかならない長次の体をつつんで居た。学校に行っても二こと目には「芸人の子」が出かけていじめられて居てもたれ一人味方になって呉れる人もない中でまっさおなかおをして唇をかんでポロリポロリと涙をこぼして居るのを意地悪の子供達はまわりにたかってヤンヤとはやして居る事がたびたびあった。学校がひけてあとも見ずに大河端にある家の格子の内に入ってからそう云う時にかぎって「只今」もしないで二階に上ってピッシャリと障子をしめてしまう。それから思い出したようにいかにもくやしそうに肩をふるわして泣いて居る。なきじゃくりながら、
「何故生んで呉れたんだ、何故生んで呉れたんだ」
親をうらむようなことを度々云って居た。散々ないたあげく母親が弟子に稽古をつけて居る三味の音に気をとられて小声で合わせたりなんかして悲しさを忘れては、
「又あした」
こんな事を思うと急に暗いかげがさしてだまり込んで淋しいかおをして居るのがふだんであった。
其の日も下駄を格子の外と内にぬいで稽古をつけて居る母親なんかには目もくれずに二階に上ってしまった。
「又いじめられたんだ」
と思った母親は自分の子の不甲斐なさにはらは立ち又、そう云われてもしかたがない今の身の上を思うと不便[#「便」に「(ママ)」の注記]でもあり、こんなこんがらかった気持にすぐ撥をなげ出してしまいたいほど気が立って来た。
いいかげんに稽古をしまって母親はしのび足に二階にのぼってすきまから目だけでのぞくと筋がぬけたようなかたちをして手すりに頭をおっつけて午後のキラキラした川面をとんで居る都鳥の姿をなつかしそうに見て居た。
「キットなきつかれたんだよかわいそうに」
母親は一人ごとを云いながら障子をあけた。
長次はふりむきもしないで見入って居る。
「長ちゃん、どうおしだエ、何んか合わせてでも見ないかい」
何にもしらないようにこんな事を云った。
「母あちゃん」
長次はいかにもなさけなそうなしっとりとした声で云った。
「何だエ」
「アノネ、何故僕は芸人[#「芸人」に傍点]の子なんだろう」
「マア、何故って……妙な事をきく子だヨ、芸人の子なら芸人の子なんじゃあないか」
「古っから芸人の子って馬鹿にされるにきまってたんだろうか」
「そんな事がどこに有るもんかネ、正しい事ならどんな事をしたって馬鹿にされるっテエ事があるもんじゃあないノサ」
不雑作に云いのけてもこの上つっこんできかれたらと母親は気が気でなかった。
「でも明治の前までは乞食と同んなじだったって云うもん」
「そんなに御まえくどくど云ってるもんじゃあないのさ。古は昔、今は今、サネ、わかるだろう。もうこないだ御なくなりになった天皇様が御偉くって、偉くさえ有れば平民だろうが何だろうが立派にして下さるのさ、芸人だってそうさ、天皇様の御前であの福助と団十郎が安宅ヲシテ御目にかけた事だってあるじゃあないか、だもの……」
「僕になれるんかしら」
「なれるともネなれるともネ、一生懸命にさえすればどんなにでも偉くなれるもんだもの」
「母ちゃん、気やすめ云うんじゃあないんかい」
年にませたことをフイに云ったんで母親はハッとしたようにそのかおをしげしげと見て云った。
「気やすめ? そんなまわし気をするもんじゃあないよ。御前のかなしい事は私も同じほどかなしいんだから、サ、もうそんな事は云わずに何か合わせようネ、いい子だから」
長次はまだわだかまりのあるようなかおをしてだまって居たが、
「ウン合わせよう」
はっきりとした声で云ったので母親は身も心もかるくなったようにかけ下りて黄色いふくろに入った三味線を二梃もって来た。
「何にしよう」
母親は指をなめながら云った。
長次はしきりと撥を持ちかえて居たけど、
「はでなもん、なんか」
「越後獅子がいいよ、それじゃあ」
長次と母親の手がサッとひらめくと「シャン」しまったさえた音は川面をかすめて向う岸の倉の屋根をかすめる、都鳥の白い翼にものる。母親は目をつぶってはぎれのいい手ぶりでスラスラといい音を出す。まだ小さい自分の子のたのもしい様子を見て五年前になくなったつれあいの事を思い出してどうしてもあの位にはしあげなくっては、と思って撥をにぎって居る小さい白い手を見つめた。
二人は永い間何も彼も忘れたように弾いて居た。
その日から長次はめっきり強くなった。けれども学校では同じ位にいじめられて居たけれども、
「何んだい、天子様の御前で弾いて見せるぞ」
涙をこぼしながらそう云って居た。
家にかえるとすぐ誰が居ても斯う云って居た。
「ネエ母ちゃん、芸人だって偉いんだネー、天子様の前でだって弾けるんだもの……」
京の御人
「ついでがあんまっさかえ久しぶりで御邪魔しようと思ってます、先に御出やった時ややさんでおしたいとはんはさぞ大きゅう御なりやったろうなも、そいがたのしみやさかえ」
こんなうちとけた手紙をよこした御まきさんと云う人は京は嵐山の傍は春の夢のように美くしいところに今年十六の一人娘とおだやかに不自由なく暮している人だ。生れは雪深い越後、雪国に美人が多いと云うためしにもれず若い時は何小町と云われたほどその美しさがかもしたいろいろの悲しいことや美しい話は今はきりさげの被衣姿の人の口からひとごとのようにはなされる事もたまにはある。娘も京の川水に産湯をつかっただけ有って牡丹のようなはでやかな姿とまあるいなめらかな声をもって育った人で理くつもこねず女学校にも上らず御かざりのようにしてある箱入娘だと云うことである。
そんな事を思い合わせながら私達はまだ見たこともない人種が来でもするように、
「御めんやす」
と云う声をまって居た。
一週間ほど立って久方ききなれない言葉に下女が目をまるくさせながら私達のまちもうけて居た御客さんが来た。すぐに茶の間に入って、
「はんまに久しぶりやなあ」
と相拶よりさきに云った。御まきさんのうしろに中振袖の絽の着物に厚板の白茶の帯を千鳥にむすんで唐人まげのあたまにつまみ細工の花ぐしを一っぱいさしてまっしろな御化粧に紅までさした御ムスメがだまって私のかわった不ぞうさのあたまを一生懸命に見て居た。その目つきと口元を見て、悪いとは思いながら「あんまり目から鼻にぬけるような人じゃあない」とまるで六十か七十の人のような気持でこんな事を思った。
母とおまきさんとはだれでもがするようにこめつきばったをやって居る。
「ほんまに年ばかり大きゅうてからややさまやさかえ」
こんな事をつけたしにして母にその娘をひき合わせた。重そうな頭をそうっとさげてまっかなかおをした様子を私はつくづくと見て居た。
「サ、百合ちゃんおぼえておいでかい、もう忘れてしまったんだろうけれど、この方が御まきさん、あなたは――御仙さんて御っしゃいましたっけか?」
娘さんにきくと合点をしたんで、
「ほんとうにうちのは御てんで困るんですよ、何も出来ないくせに理くつばかりこねて」
私のあんまりうれしくない前おきをされてからあわてて御じぎをした、もうこれで五度か六度した。
私はしたしい人のうちに来て口もきかず合点をしたりイヤイヤをしたりばかりして居るお仙さんをあやつり人形を見るような生きたのでないような気持で見て居た。それで一寸もうれしいとかなつかしいとか云う気はおこらずにめずらしい大きな人形を見る通りにただその大きく結った髪や千鳥の帯や長い袖を見て居た。
「何ぞあそばしちゃってちょうだい、あねさまごとも千世がみをきるのも大すきやさかえ」
御まきさんは母のはなしの間にこんなことを云った。
「エエ」そう云ってあとはつっかえてしまった。
私はもう五六年さきにあねさまごとも千世がみきりもしてしまって今はその御なごりもなくなってしまった。
「母様、どうしてあそびましょうネー千代がみもままごとの道具も御ひなさまのよりほかもってないんですもの」
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