あの人は、はっきりした口調でこんな事も云った。あの人の、口元、目の底、手の先、にほんとうにみちみちた力づよい、希望に光りかがやいて居るあの人を見つけた。爪の先、指、小耳、そんなところは前よりも娘らしい美くしさになって肩つきも丸くなって居た。今夜はどうせ明日は学校もないしするからって私達は卓子の上にいっぱい本を積んでお互に袴をはいて居る時の様な気持でかおをほてらして話し合った。十時頃、あの人は帰った方が好いと云うので私は、脚本を沢山と『女と赤い鳥』を貸しておじさんの家まで送って行った。六時から十時まで――私達にはあんまり短っかすぎた。それでも私はあきらめた様にしてだまってまっさおに光る路を歩いた。私の気持もうす青く光って涙ぐんで居た。
 伯父さんの家の門の前で大阪に手紙を出す事、ひまがあったら送って行く事を約束して別れた。たった一人、うす明るい町を歩いて居る私はほんとうにみじめな涙のにじみ出るほど悲しい気持で居た。私の気はもうこの上なしと云うまで亢奮してしまった。思いがけなくあった嬉しさ、あの人が女優の弟子になったと云う事、又大阪に行って暮までは会えない。
 そんな事が私の心臓の鼓動を頭の頂上でうたせて居る。一時頃まで私はあの人のかつら下地に結ったかお、引眉毛の目つき、を思って居た。
 ウトウトとして目をさましたら七時頃だった。すぐとびおきて私は、退紅色と紅の古い紙に包んだ鏡と、歌と、髪の毛をもってあの人の家にかけて行った。あの人はよそに出て居た。それを縁側に置いて、
「身を大切にする様に、
 自分を大切なものに思う様に、
 勉強する様に」
と伯父さんに口伝して私は又家に戻って帰ったら翌日の晩、
「先達ってはどうも……あした朝九時で立ちます。前の家で借りてるんですから……さようなら」
 これだけを、あの人は細い金属を通して私に云ったきりで行ってしまった。
 私とあの人、――もとより知らない人になる事はどんなに長い間時がたってもあろう筈がない。「二人の中どっちが死んだ時でものこった方が死んだ人にお化粧のしっこをしましょう、――私とあの人はこんな事まで云った。私は、あの人がどんな事をしても信じて居る事は出来る、私はあの人を信じる事が出来る――」斯うささやく心のどこかにほんのちょっぴり今までにない不安さがある。
 私はあの人を女優とは云わせたくなく、又自分からも云いたくない。
 女優――斯う云う言葉の中に何とはなしに私にはいやにひびく音がまじって居る。
 女役者と云う方が私はすきに思われる。
 女役者のあの人と私、そう思うと何故とはなしに涙がこぼれる。
 あの人は今大阪に居る。私は東京に居る。
 あの人は女役者で、私は――
 私とあの人――はなれられないものだと云う事だけを私はハッキリ知って居る。

     夜の町

 下町のどよめきをかすかに聞いて夜店のにぎやかさ、それをうめて居る軽い浮いた気分、――そうしたものを高台に育った私はなつかしがって居る。屋敷町の単純な色と空気の中で人いきれと灯影でポーッとはにかんで居る様な向うの空を見てその下に居る人達の風、町の様子を想像して居る。あの、夜あるくにふさわしい様な――どこまでこのまんま歩いて行ってもその先々にキットたのしい事が待ちかまえて居る様な気のする銀座通りを私は毎日歩いて居たいと思う。何となし斯う、熱い気持のする柳の下に細々とかんテラがともって色のあせかかった緋毛氈の上に、古のかおりのほんのりある様な螺鈿《らでん》の盆や小箱や糸のほつれた刀袋やそんなものは夜店あきんどが自分の生活のためにこうやって居るとは思われない。うす黒い柳の幹に、しみのある哥麿の絵や豊国の、若い私達の心をそそる様な曲線の絵が女達の袂のゆれに動く空気にふるえて居る――その絵のにせものなんかを見る余裕もないほどに私の心にせまって来る。目のとどかないほど高い建物のわきに、――まぼしい電燈のかげに――緋毛氈とカンテラの別の世界が□[#「□」に「(一字不明)」の注記]よせて哥まろの女のほほ笑みかくれた天才の刀のあとが光る、――斯う思うだけでも私は細く目をつむってほほ笑みながら小さい溜息をつきたくなる。
 行って見たい――私は田舎の娘の都を思うと同じ調子にこの色も空気も気分もまるで違った銀座の通りをあこがれて居る。
 なろう事なら一晩あの通りにうれてもうれないでもどうでもかまわないからあの古道具屋になって座って見たい斯んな事も思って居る。鹿の角の刀かけの上に光って居るカタナと云うものを珍らしげな又こわらしげな様子をしてのぞき込む裾のせまい着物を着た異国の女、すべてが活き活きした若い人達の心にふさわしい様な夜の様子を思うと体の中の方からかるい震えが起って来るほど――銀座の夜は私になつかしい。気のあった若い人とだまって居
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