ろから一寸も会う時がなかった。
三月頃に一寸電話をかけてよこして「この頃、私大事業を起したんだから」なんて云って居たっきり、別に私も気にかけなかったし、自分の用事がたまって居たんで苦しい事をして会おうとは思って居なかった。
それから、時々、美術学校へ行く伯父さんに会ったりして、ただたっしゃで居ると云う事だけは知って居た。
こないだ、雨の降る日に茶色のたまらなく私のすきな壺を借りて来ようと思って行った時に「今どこに居らっしゃるんでしょう」ってきいたら、
「神戸に行ってるんです。貴方にだまって行くって気にしてましたっけが急で用事ばっかり沢山あったんで自分でも思う様に出あるけなかったもんですから……」
こんな返事をした。
帰ってからも丈夫でさえ居るんならどこに居たってかまわないとは思うけれ共何となく不安心なあの人の身の上に変った事が起ったんじゃああるまいかと思われた、思い出すとやたらに気になって翌日も翌日も幾日頃帰りますって伯父さんのところへききに行った。そのたんび私ははっきりしない返事に業をにやしては帰って来た。私の心の中には彼の人の事がいっぱいになってしまった。いつもの癖だとは思っても、どうしてもまぎらす事が出来なかった。
それでも学校にはたしかに行って居た。二十二日の日に四時頃私は黒い包を抱いて縞の着物を着て学校の前から電車にのった。
こんで居たんで私は一番車掌台のそばにおっこちそうになってのって居た。人と人との袂の間からのぞいて居る、女の手が妙に私の目を引っぱる力をもって居た。うす青の傘の柄を小指だけ一本ぴょんとはなして居る形がどうしてもあの人らしい。わり合に色が黒くって指の先の一寸内に曲ったところなんかが間違いなくそうらしく思われた。一寸も動かない片手では何かにぎって居るらしい。私は今の袂の下から首を出した。――そうだ――私は、そうっとかくれる様にすりぬけてあの人の目の前に立った。「マア、……」一寸腰をうかせて長い袂をひざの上に組みなおして左の手にもって居た巻いたものをもちなおした。
「ほんとにしばらく、――いつあっちからかえっていらっしゃった、……」
「おととい、……思いがけなかった事ほんとに、これから東片町に行くから一緒にネ、そこまで……」
ほっぺたを赤くして彼の人は云った。
「今どこにいらっしゃるの、林町と東片町には居ないって云ってらしてたから、……」
「あとで……晩に上りましょう」
「晩まで御楽しみにして置いて……」
それから、私達は、だれでも、あいたいと思ってる人にフイに思いがけない様な時に会った時にする様な、あとでキットくやしくなるとりとめもない話をして笑いながら牛肉屋の角で分れてそれから私は走る様にして家に帰った。マアほんとうに夜になるのが待ち遠しかった事、私は、夕飯をしまうとすぐ門のところへ出て丈の高いあの人の姿の夕やみの中にうくのをまちあぐんで居た。長い矢がすりの袂をヒラヒラさせてしなやかな足つきをしてあの人は私の目の前に立った。二人は、笑いながら敷石をかたかた云わせて私の部屋に入った。先にあの人がここに来た時よりもって居る私の本は倍ほどにふえて居た。
「マア、随分、あつめた事、……私なんかこの頃いそがしい思をしてばっかり居るんだから……」
こんな事をあの人は云ってこの頃少しふとった肩を両手でおさえた。
「御楽しみを早く教えて――」
「云いましょうか、でも何だか、一寸云いにくい事なんだけれ共……私今嘉久子の家に居るの、弟子の様になって……」
斯う云ってあの人は私がどんな事を云い出すかと思うて居るらしく、うす笑いをしながら私の目を見て居る。
「とうとう……でもいいでしょう、自分の望んで居た事なんだしいろんな事が都合よく行って居るんなら……私だってきらいな事じゃなし……」
私は、こんな事を云った。
「外の人が聞いたらキット何とか云いましょうネ、でももう、何んて云われたってかまわないけれ共……貴方さえ気にしなけりゃあかまいやしない……」
「それで……今あっちの田町の家に居るの……」
「ええ、随分はでな暮し方です、我ままでネー――」
あの人はまるで自分に関係のない家の事をはなす様な口調で云った。
あの人の様子は一寸も変って居なかった。それでどこにも、そんな事をする人らしいういたいやみなところはなかった。私はそれをうれしく思いながらいろんな事を話し合った。芝居――脚本そう云うはなしになると今までとはまるで違った真面目さと熱心で私の云うのをきいて居た。あしたの朝十時位までには帰らなくっちゃあならない事、また二十□[#「□」に「(一字分空白)」の注記]日には大阪まで行くんだからいそがしい、なんかと、おちつかない、それでうれしそうなかおをして云って居た、「もう今私はそりゃあ真面目に勉強して居る
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