ながら同じ事を考えながらあの道をスベッて行きたい、心の底に小さい又すてがたい詩の湧いて居る気持で――
唐人まげに濃化粧の町娘にも会うだろうし、すっきりしたなりの女にも会うだろうし――
銀座の夜の町に私が行ったらキッと誰かが私を知って居て待って呉れるんじゃああるまいか――
夜の時、銀座、私は斯う云って豊国の絵の女の頬のまるみを思う。
静けさとうれしさ
夢よりも淡い静けさ、――小雨は音もなく降って居る。黒土は娘の肌の様に。枝もたわわに熟れた梨の実はあの甘い汁の皮の外にしみ出したように輝いて居る。萩はしおらしくうなだれてビワのうす緑の若芽のビロードの様な上に一つ、二つ、真珠の飾りをつけた様に露をためて――マア、私は斯う、小さい、ふるえたため息をもらさなくては居られないほど嬉しさにみちて居る。泣きぬれた瞳の様な、斯う思って私は椿の葉を見て居る。頬ずりをして見たい様な、斯う思っていかにも柔かそうな青い苔を見る。木の葉の茂み、その肌からうれしさがしみ出して私の心の中に通うような苦しいほどの嬉しさに私の目には涙がにじみ出して来る。私の心はどうにも斯うにもしようのないほど波立って来る。ジット目をつぶると、静けさ、嬉しさは、ソット忍足に私の心の中にしみ込んで行く。かるいほほ笑みのくすぐる様にうかぶかおを両手でおさえて私はつっぷした。モウ何とも云われないしずかなおだやかなふるえるほどいい気持に細い細い雨の一条一条のすれ合う音が私の体のまわりを包む。
たまらないしずけさ、うれしさ、――私の頬にはとめどもなく涙が流れる。涙に雨のささやきがひびいて又私の体をおそう。気が狂いはしまいか気が遠くなりはしまいかと思うまで私の心はふるえにふるえて居る。「体をなげつけて、こんなに美くしい柔い雨にうたれたい」私はこう思いながら笑った。涙は流れる、けれども口元には笑いがただよって居る。自分に分らないこんざつした気持を希臘《ギリシャ》時代の絵のような不思議なこころもちでソーッとのぞいて居る。しずけさ、――私の頬にはまだ涙が流れて居る。限りないこのうれしさ、しずけさの中に私はマア、……。ほんとにうれしい!
低気圧の強い時
鏡ん中には片っ方は妙に曲ってふくれた、も一方は青い色にしなびて居る私の頬をうつして居る。「にくいむしばめが……」形のない、又目にも見えないものを私は斯うしかりつけた。
たまらないほどイライラする気持で鏡の前を飛びさった。そして、私のかおのうつるものとては一つもない部屋――私の本ばかりある部屋に入った。机の前に腰をかけて何心なく頬杖をつくと片方の違いが又ハッと思うほどわかる。「いやんなっちまう」こんな事を云ってしまつの悪い二本の不細工な手を卓子の上にパタッとなげつけた。まぎらそうとして本箱の本を見ては一々その中の事を思い出して居る。順々に見て居ると私のすきなのが二冊見えない。又あれがもってんだと思うと、すぐだらしのない、ウジウジした袴をいつでもおしりっこけにはいて居る男の様子が目の前にうかぶ「よりによって私のすきなのをもってかずといいに――たった一度見たけりゃあもってってもいいって云ったら、いい気んなってどれでもとってって仕舞う」
まさか面と向っては云えないこんな事もかんしゃくまぎれに云った。何を見てもいやにこん性わるく弱々しく、そしてしゅうねん深くこびりついて居る痛みに気をひかれる。ソーッと義《イレ》歯をかみ合せて見る時みたいにやって見るとすぐつまさきから頭のつむじのてっぺんまでズキン――すぐ涙がスーッとにじみ出て来る。お正月にこの歯が悪くって血脇さんに行ったんだけれ共あの色の生っちろい男がむしずが走るほど気に食わなかったで十日ほどでやめたばちだと云えば云われるが――そうなんでしょうって云われればまけおしみのつよい私は違うんですよって云うにきまって居る。
理屈はとにかく痛い事は痛い、たださえ骨套[#「套」に「(ママ)」の注記]的に出来上って居るかおを左頬をプクンとふくらませて八の字をよせて居る顔はさぞマアと思うとあいそがつきるほど腹が立ってしまう。ろくでもないげんこを作ってトントンと卓子の上を叩く、そのいやに人馬鹿にした様な響までが気にさわる、何かうたでもうたって見せろと、一声出すとろくに口が廻らない気がさしてフッとやめてしまう。ほっぺたを押えて見たり、かみ合わせて見たり、ああしこうしして見ても痛いのはなおらない。家の人から宝丹をもらってやけに口一っぱいぬりつけてしまう。口もあつみがふえた様にボテボテして感じがにぶくなってしまった。痛みは少しいい。泣きつらに蜂はこの事だと思われた。笑う人の気がしれないって一人でプリプリして居る。笑いたいと思ったって、かんしゃくが起って笑えやしない。
頭の半分までが御しょう
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