ホックをかけた。
門燈に照し出された下だけに杜若が鮮やかな色を見せている、その小橋の際まで送って出た細君に、お茂登はくれぐれも礼をのべ、自分のたべた弁当の代をおいてその家を出た。
ひっそりとしているようであったが、外へ出て見ればまだ宵の口で、幾組もの兵隊が砂利を鳴らして行き来している。母親と並んでいた源一も、やがて後から来かかった一かたまりと薄暗がりの裡で合流した。
やっと足元の見えるような暗いところを相当行った。つき当りの大通りの灯が見えて来て、ちょっとした広場のようになった角に、飾窓の明るい文房具屋とタバコ屋とを兼ねた店がある。折から一台がら空きのバスがその広場へ入って来て、方向転換をはじめた。女車掌だけが地べたへ降りて、後部を見ながらオーライ・オーライと合図をしている。お茂登はそれを見ると急に遽しい気になって、洋傘を包みと一緒の手に持ちかえながら、半ばは角の店の横にかたまっている源一の方へふりかえりながら、高声で、
「この車が駅へ行くんだろうか、え?」
と訊いた。自分への質問と思いちがえた女車掌は、疲れたぞんざいさをかくそうとせず、
「お乗りはあっちから願います。停留場はあっちですから」
そのまま、階段に上って、オーライと、エンジンをふかせはじめた。お茂登は一層|惶《あわ》てて、その辺をきょろきょろした。すると、まだ角に佇んでいる三四人の中から、源一ではなく、お茂登の見知らない一人の兵隊が白い手袋をはめた手を夜目に動かして、
「小母さん、そっちですよ。その乾物屋の前が停留場です」
と、大きな声で教えてくれた。
お茂登は、そこへ行きつく間も不安そうに小走りして、やれ、やれ、と入口近く腰をおろした。お茂登は、当然源一も来て隣りにかけるものと思い、包みをちんまり膝の上にまとめて待った。ところが源一は来ないで彼女のすぐ後からは立派な剣を下げた将校が、見事な装をして東京弁をつかう中年の女二人づれで乗りこんで来た。余り源一がおそいので、バスの後部のガラスをすかして見ると、連中はやはり元の場所から動かずかたまっている。こっちを向いている源一の顔がタバコ屋からの横明りで見えたと思った。お茂登は、坐席へ包みと洋傘を置いて、そっちへ立ってゆきかけた。手招きして、源一に早くと知らそうと思ったのであった。歩きかかったとき、
「お待ち遠さま、発車でございます」
女車掌の声と一緒に乱暴に一揺れして、お茂登はあやうく転《ころ》げかかった。待ってくれ、という才覚もつかない間にそのままバスは速力を出し、馴染《なじみ》のない夜の街がガラスを掠めはじめた。
お茂登は暫くあっけにとられていたが、やがて何とも云えない気持で、腹の底が顫えて来た。源一が駅まで来られるものと思って、改っては訣れの言葉も交さなかった。それなり来てしまった。涙こそこぼれないが、お茂登は何かにつかまらずには体が二つ折れかがみそうに切なくなって来て、運転手のうしろにあるニッケルの横棒へしっかりと節の高い手をかけた。そして、前方に目を凝したまま揺られて行った。
二
一年半ばかりのうちに、村から四十余人出征していた。はや、遺骨となって白木の箱にいれられて帰ってきたものもある。今まで源一に召集がかからなかったというのが寧ろ不思議なくらいであった。軒並と云ってよいくらい出ている。その中で一度一度と召集に洩れると、かえって妙な不安で母親までも何だか落付かない工合であった。その晩も、隣村の同年兵のところへ赤紙が来たという知らせで、そっちへ出かけていた間に源一の召集もかかったのであった。
十五日の朝、広治は明けがたの三時に家を出た。昼すこし前電報が配られて来た。
ゲ ンキニテゴ コ三シタツ
店先に立ったままその電報をひらいて読むと、お茂登はそこにある広治の板裏草履をつっかけて、向いの家へ行って見せた。それから仏壇にお燈明をつけて、その電報を供えた。亡くなった父親は、日清、日露と二度戦争に出て、米穀の商いにも「作戦アリ」という言葉をつかうような気風の男であった。
兄のお下りの紺背広が揉くしゃになったような恰好で広治が、丁寧に巻いた紙の日の丸小旗をもって帰って来たのは、暗くなって大分してからであった。靴の紐をときながら、彼はうしろに来て立っている母親に、
「元気なもんで※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
と、亢奮のほとぼりの残っている声の調子で云った。
「そんなに、元気にしとってか」
「元気とも! 心配するようなことはちっともありゃせん」
いかにも入営前の青年らしい声には、自分もと勇んだ気持が響いているように聞えて、お茂登はこれまで単純に頼もしさばかりで眺めて暮して来た二番息子の逞しい肩幅に、今は愛惜に似た母の心を感じるのであった。沈んだような、また安堵もした顔
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