そこへ永田軍曹も帰って来た。去年源一が除隊になった後もずっと隊に居残った永田が、今は源一の上官であった。
「自分が初年兵の時代には、今井君に大分世話をやかしたもんであります」
 その誼《よし》みに頼る心持を飾りなく面にあらわして、お茂登は息子の身の上をたのんだ。
「そう云われては恐縮です。お互に初めての経験で、まア助け合いながら十分勇敢に、且つ賢明にやる覚悟ですから、決して御心配はいらんです」
 そういう云いまわしなどでも源一とはちがうその若い軍曹は、一応お茂登との挨拶がすむと、てきぱきとしたとりなしで弟に向い、
「いいか、これは重要なもんで。二階の棚にしまっておいて呉れ。お前が責任もって保管して呉れ、わかったな」
などと、トランクの整理にとりかかった。自然、お茂登親子はそこからなるたけ離れたこっちの窓際にかたまって、声も低く、
「今のうち、これ見ておき。足らんもんでもあったら、買うて来にゃならんけ」
 膝の前に、持って来た風呂敷包みをひろげるのであった。

 親子が初めてさし向いになったのは、夜も七時過てであった。隊に送別会があると云って永田が出かけ、弟妹たちは駅へ着く両親を迎えに行き、ひとしきり揉まれた部屋の空気がやがてしずまると、かすかに花の匂いの流れるような五月の夜気が、濃く柔かく窓外に迫った。源一は、酒気を帯びた額に明るい灯をうけながら、胸をすっかりひろげた軍服のままのあぐらの膝に片肱つき、妻楊子を歯の間で折っている。時々その顔をくしゃくしゃと動かして、鼻の下をこするような手つきをするのを見て、お茂登は、二つ折りにした座布団を押してやった。
「何ならちいと眠ったらどうで……時間を云えばおこしてやるで」
「なに、大丈夫だ」
 そう云ったら気もぱっきりしたという工合で、源一は、
「ああ、いい気持だ」
 広い胸一杯の伸びをした。
 馴れたところといってもやはり、ひとの家という気持があって、お茂登が来てからは親子もおのずと、うちでのような声では話さないのであった。
「十五日には、どうしたらよかろ。――広治を見送りによこそうか」
 部隊は全部十五日にその市を出発して支那に渡ることにきめられているのである。
「ふむ……」
 真面目な眼付になってしばらく考えていたが、
「じゃ、広治よこして下さい。おっ母さんは来ん方がいい。もうこれで十分じゃけ」
 そして、源一は人なつこい眼尻に笑いを湛えて母親の顔を見ながら、
「人間の心持はおかしなもんだなあ」
と云った。
「わーっと旗をふっている大勢の何処におるやらどうでもわかりもせん癖に、あの中にうちからも来とると思うと、それだけで勢《せい》が大分ちがうそうじゃ」
「そらそうで! 広治を来さそう。やっぱりここへ朝早うに来れば分ろう?」
「うん」
 だんだん胸がせまって来るのを、涙に溶かすまいとすると、お茂登の声と眼とは、おこったような力みを帯びた。
「ほんに、体だけは大事にすることで」
「うん」
「ほんとで。手の一つや足の一つないようんなって戻ったって、きっとおっ母さんが恥しゅうない嫁女持たす」
「…………」
「いいか」
「ああ」
 云いたいことは詰っていて、両方の肩にみがいって来るのがわかるほどだのに、いざとなると、お茂登には、体を大事にしろとより繰返す言葉が見つからないのであった。その気持は源一にしても同じらしく、親子は暫く不器用に言葉のつぎ穂を失った。
 沈黙はどちらからともなく解《ほぐ》れ、お茂登はいかにも助け合って商売をして来た総領息子に向う口調で、
「さっき、学校で、佐藤さんが、トラック四千円なら会社へ売ってもいいと、お繁さんにことづけよこしたで」
 そして、いくらか平常の気分に戻って、
「四千円なら悪うあるまい。うちのも、広治が入営してしまったら、いっそ売ってしまうか」
と、思いつきのように云った。
「運転手に給料払ったら、とてもこれまでのようにはいけんし……」
 半年先に、次男の広治の入営も迫っているのであった。
「そりゃおっ母さんの考えでどうでもいいが……。あとになって買いかえるというのもことだろう。車庫へ吊っておけば結構二年三年はもてる」
 こんなことも、云って見ればもう今日までにすっかり話しつくされたことである。階下で九時を打つ音を数えて聞いたとき、お茂登は、
「もう、あんな時間か?」
 せっぱつまったような顔付をした。
「十時半の汽車に乗るなら、そろそろ出た方がいいかしれんな。折田がそれでも十二時すぎるで」
 母親のその顔付から目をそらして腕時計の龍頭をまきながら源一が立ち上るにつれて、お茂登も包みをひきよせた。
「お前はどうする?」
 源一は、すぐには答えず、口元をすこし引しめた表情で眼をしばたたくようにしていたが、やがて、
「送って行こう」
 顎をもち上げて襟
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