つきで、お茂登は広治のために布巾をかけておいた餉台《ちゃぶだい》の横に坐った。
「ひもじかったろう」
「ああ」
 すぐ茶碗を出したわりに広治は食べなかった。眉毛をつり上げるようにして熱い白湯《さゆ》をすこしずつ啜りながら、
「えらいもんだなア。おっ母さん、あっちの見送人のえらいこったら! 迚も堺あたりの話じゃない」
 お茂登は思わず顔をほころばした。
「そりゃそうにきまっている」
 堺というのは村から半里ばかり先の支線の小駅で、源一はそこから出発したのであった。
 店へ出入りする人々の口にも源一の名が屡々《しばしば》のぼって、お茂登は当座せわしなく暮した。広治一人になったので新しく仲仕を雇い入れた。彼女は、永年の経験から、人間は気持のもんで、ちいと仕事がえらかった時には間にパンなり買ってやれ、と、トラックに乗り込むオバオール姿の広治に注意した。
「今時、人のないときは、ちいとのことはこっちで辛棒して働いて行かにゃ仕様がない」
 そろそろ肥料が出廻る季節で、組合とは別に今井の店でそんなものがまとめて扱って行けているのは、不便な山奥の部落の連中が、肥料をそこまで運び上げるトラックの運賃は店もちというサービスにひかれてのことであった。こまかく気を配って、その帰りには米なり、炭なり、必ず何かつむようにしてガソリンを無駄にしなかった。骨折りの多い面倒な稼ぎを、お茂登の才覚と息子たちの体とでこの七八年の間に今井の一家は破産の状態からやっと幾分建て直って来ているところなのであった。
「おっ母さん、心配せんでいい。入営までの半年は俺がうんと働いておくから」
「そうとも! そうして貰わんことにゃどうにもならない」
 在郷軍人会と国防婦人会が先に立って村の鎮守の社で出征家族の慰安会が行われ、お茂登も店を前の家のおかみさんに頼んで出席し写真にうつった。
 背広に折鞄をかかえた髭の男が頭も下げず店へ入って来て、帳つけしているお茂登の傍へずいと寄り、底気味わるい眼付で、
「出征家族はどこでもこれに入るんで……」
と、さながら役所からでも来たように訳のわからない新聞社の名を刷った寄附募集の紙をつきつけるような日もあった。戦がはじまった当座にはなかったことであった。
 源一から安着の報知が届いたのは、出発以来やがて一ヵ月も経とうとする頃であった。落付かなそうな鉛筆の字で、去る二十七日任地○○へ安着しました、と出発のときの礼をのべ、「初めて見る支那大陸は曠漠とした原野のみにて何だか心淋しさを覚えました」昼間の暑さは内地と変らないが夜は冷えこんで防寒チョッキを着ることや第一回討伐に出たが銃声を少々聞いただけだったのは残念だったということなどが、トラックは格別の故障もありませんかという家事への心づかいと一緒に封緘ハガキに書かれてあった。その封緘はエハガキであった。高粱を背景にして石に腰かけている日本の兵隊が、日の丸をかついでいる支那の男の子と女の子とに何か菓子をやっている絵が淡彩で描かれている。こういうものまでこっちで拵えて持って行っているのかと、お茂登は広治にそれを見せながら、
「どうで。なかなか見やすいこっちゃないわけだ、なあ」
と、暮しを頭に浮べながら、改めて傍からのぞきこんだ。無口に広治は何とも云わず、地下足袋をはいたままの膝で店へあがって、板壁に鋲でとめてある新聞の附録地図の前へ行った。
「わかるか? いずれ地図なんぞに出ておらんような山奥だろ」
 広治は根気よく顔をすりつけて永い間見ていた。
「あるで、おっ母さん。ここだ、ここが○○で」
「あったか!」
 お茂登は、そそくさと店へ来て帳場から埃だらけの老眼鏡をとりあげ、顎から先へ持って行った。
「どこで」
「ここだ、ほれ、○○と書いてある。北支だからここしかないで」
「ふーん」
 その声にはかくせない落胆が響いた。地図というものを知らないわけではなかったが、瞬間何か色の見える覗き眼鏡にでも向うような弾んだ気になったので、ただマルだけがぽつんとついているその地点がお茂登を淋しくした。そこに源一がいるというのも、判ったようなまた不思議なことのようでもある。やがてお茂登は眼鏡をはずしながら、いくらかえがらっぽい艶のない声で、
「どれ、その手紙」
と広治に手を出した。
「失わんようにせんけりゃ」
 翌る朝、ひきあけにお茂登は村の社へ行って縁の下の土を半紙に包んで来た。それを封じこんで源一へ返事を書いた。「同封の土はお社の土にて、これを肌身離さねばきっとかえれるそうですから、大事にして下さい」そして、船沢の娘もあれきりまだ片づきませんとも書いた。それは源一が一度よそながら見合いしたことのある娘なのであった。続々若い者の出征が始ってから、どこでも縁談は当分見合わせの有様となった。
 ペンで普通の便箋に書いた源一か
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