らの便りが二度目に届いたとき、村は五月雨であった。その年は入梅が長くて降りようも例年より劇しく、苅り入れのすこしおくれた麦畑はどこも水浸しになった。店の低い軒下に立って往来越しに見ていると、むこうの杉林のあたりまで一面水がついて、麦の穂だけが蘆のように雨脚に揺れた。列車が崖崩れの下になって修学旅行の小学生が多勢死んだのもその時季であった。終日鈍く光った雨が退けない水の上へ猶降りつづける様は人々の気を滅入らせた。支那で大砲をどっさり撃つためだと噂があった。お茂登は店の戸をあけ閉てする度に気にして、水の出ている畑地の方を眺めた。数年前まだ父親が存命の頃やっぱり梅雨期にそっちから水が増して来て、米や肥料をぬらすまいと大騒動したことがあった。男手が揃っていたが石灰を幾袋かかちかちにしてしまった。自分一人で、どうなろう。
 幸《さいわい》雨はそこまで行かずあがったが、麦は真黒に穂が腐って、小麦の相場はきまらなかった。植付けのすんだ田でも、肥料を流された。雨で金が流された、そういう感じで、むし暑い梅雨の霽《は》れ間を人々が出歩いた。
 はっきり梅雨が明け切らないうちにまた召集が奥の村々へかかった。奥の村から駅へ出るにはどうしてもお茂登の店の前を通らなければならない。紫や白の旗幟を先頭に、ゴム長をはいた村長、赤襷の出征兵、ぞろぞろと見送人の行列がつづいて、何里か先の村を出たときは降っていた雨傘や高足駄を、照りかえしのつよいもう夏の日光にいりつけられながら、駅の方へ動いて行った。外を通る行列の中の薄藤色や臙脂の若い女羽織の色が、しめ糟くさい、女気のとぼしい店のガラス戸にぱっと映ったりした。お茂登は土間の奥に立って、行列を見送った。町かたのように楽隊をつけたり歌をうたったりせず、泥のはねを白く干しあげながら、それらの人々は歩いて行った。自分たちが同じように歩いて行ったとき人は何と思って見たかは知らないが、今店先でそういう行列を見送っているとお茂登の体は引しめられて鼻の芯がジーンと痛いような気になって来るのであった。

        三

「おばさーん、おばさーん」
 学校がえりの子供の声で呼んでいるのが聞えた。お茂登はポンプを押す手をやめて表へ行った。
「これへ、いつもだけ油おくれ」
 繩でぶら下げたサイダー瓶をつき出した。
「どんな油やったっけ」
 瓶をかいで見ると、胡麻油の匂いであった。
「もう先月から胡麻はどこへも来んようになってしまった。こんどっからは白菜種やるからな、おっかさんによくそう云うんで」
 合点して出て行ったと思うと、すぐ、
「兎が出とらあ」
と告げて来た。兎は前の家で副業に飼っているのであった。急に肉も毛皮も価が出たので、工場通いの亭主が、これも工場へ出ている息子と手製で裏へ飼棚をこしらえた。お茂登は、何かのはずみで往来へ出ている眼の真赤な兎を、つかまえどころがわからなくて、しっしっと下駄を鳴らして囲いの中へ追い込んだ。
 前掛で手を拭きながら、お米が流し元から出て来た。
「また出ましたか」
 その兎を一つの棚へ入れたり、藁を代えたりするのを、お茂登はわきで見物していたが、
「信造さんのお勤めの話はその後どうなりました」
と、思い出して訊いた。
「はア、あれはやめにいたしました」
 お米は、鉄工である亭主とまるで違う都風なとりなしで答えた。
「目の前はいいようにありますが、あっちへ行けば臨時なそうで、先がどうとも分らんから、マア十二年勤めて来たところはのくまいといっとりました」
 お茂登の家にうちよせている波は、それぞれの形で家々の生活を変え、律儀な信造の一家をも激しく動揺させていた。旋盤をやっている十八の長男が、今通っているところを四日ばかり風邪ということにして休んで、汽車で四五時間はなれた町のある工場へ様子見に行った。その留守に、いま勤めている工場の主任がわざわざ家へやって来て、いちどきに二十銭日給をあげて行った。本当と思えない話が現実にあった。そして、人々の心は落付き場を失った。
 丁度、梅雨の時分、次第に白く光って松林のこっちの水がふえて来るのを軒下から見ていたときのような気持で、お茂登はぐるりの暮しの動きに目を凝していた。散髪屋の二男が自動車の免状をとってトラックをやるつもりだそうだという噂をきいたとき、お茂登の頭に閃いたのは、二人の息子がいなくなってしまった後の閉めっぱなしになった自分たちの店の車庫のがらんとした姿であった。涙とも云えない涙が目頭に滲んだ。
「碌さん、本当にやる気だろか」
 広治は、窮屈そうにおっ立て尻をして新聞の上にかがみこんだまま、
「さあ……」
と云ったぎり黙っている。然し、いい気持でなくその話をきいていることは、広治のどこやらむっと口をつぐんでいる若者らしい横顔に見えている。
「マア、
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