その年
宮本百合子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)四辺《あたり》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一層|惶《あわ》てて、
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ち[#「ち」に傍点]のところへ手をやったが、
−−
一
雨天体操場の前へ引き出された台の上から痩せぎすな連隊長の訓辞が終り、隊列が解けはじめると、四辺《あたり》のざわめきと一緒にお茂登もほっと気のゆるんだ面持で、小学生が体操のとき使う低い腰かけから立ち上った。
源一が、軍帽をぬいで、汗を拭きながら植込の方へやって来た。そのあたりには、お茂登ばかりでなく、生れて間もない赤んぼをセルのねんねこでおぶった若いおかみさんだの紋付羽織の年寄だの、出征兵士の家族がひとかたまり、さっきから見物していたのであった。
母親のそばへ来ると、源一は、にっこり笑いながら、幾分照れくさそうに、
「どうで」
おとなしい口調で云った。
「見えたかね」
「おお、よっく見た」
お茂登はわが子のがっしりとした様子を心に深くよろこびながら、ちょっと声をおとして、
「大分年をひろったひともおるなあ。背嚢背負うのに手つだって貰っとるような人もあるで」
「――今度のは後備もまじっとるから……。いろいろだ」
腕時計をのぞいて源一は、
「どうする? おっ母さん」
ときいた。
「先へ宿舎の方へ行って休んどったらいい。あっちなら普通の民家の二階で親切な家だし、永田の家のもんも来とるから」
「お前はまだ何ぞあるの?」
「俺は三十分ほどして行く」
道順をこまかく教わって、お茂登は黒い洋傘と風呂敷包みをもち、部隊名を大きく書いた板の下っている小学校の校門を出た。臨時の衛兵所もそこに出来ている。
麦畑を越した彼方には、遙かに市外の山並みの見える附近一帯は、開けて間もない住宅地であった。洋装に下駄を突かけた女の姿が台所口にちらちらしているような同じ構えの家がつづいた。その間の歩きにくい厚い砂利道を、兵隊が何人も動いている。戸毎に宿舎割当の氏名が貼り出されているところを、やっと探し当てて、お茂登は、前の小溝に杜若《かきつばた》が濃い紫に咲いている一軒の格子をあけた。
数日来のはげしい人出入りで、村瀬という表札のかかったその家も、奥まで開けはなしにし
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