であった。
「もう先月から胡麻はどこへも来んようになってしまった。こんどっからは白菜種やるからな、おっかさんによくそう云うんで」
 合点して出て行ったと思うと、すぐ、
「兎が出とらあ」
と告げて来た。兎は前の家で副業に飼っているのであった。急に肉も毛皮も価が出たので、工場通いの亭主が、これも工場へ出ている息子と手製で裏へ飼棚をこしらえた。お茂登は、何かのはずみで往来へ出ている眼の真赤な兎を、つかまえどころがわからなくて、しっしっと下駄を鳴らして囲いの中へ追い込んだ。
 前掛で手を拭きながら、お米が流し元から出て来た。
「また出ましたか」
 その兎を一つの棚へ入れたり、藁を代えたりするのを、お茂登はわきで見物していたが、
「信造さんのお勤めの話はその後どうなりました」
と、思い出して訊いた。
「はア、あれはやめにいたしました」
 お米は、鉄工である亭主とまるで違う都風なとりなしで答えた。
「目の前はいいようにありますが、あっちへ行けば臨時なそうで、先がどうとも分らんから、マア十二年勤めて来たところはのくまいといっとりました」
 お茂登の家にうちよせている波は、それぞれの形で家々の生活を変え、律儀な信造の一家をも激しく動揺させていた。旋盤をやっている十八の長男が、今通っているところを四日ばかり風邪ということにして休んで、汽車で四五時間はなれた町のある工場へ様子見に行った。その留守に、いま勤めている工場の主任がわざわざ家へやって来て、いちどきに二十銭日給をあげて行った。本当と思えない話が現実にあった。そして、人々の心は落付き場を失った。
 丁度、梅雨の時分、次第に白く光って松林のこっちの水がふえて来るのを軒下から見ていたときのような気持で、お茂登はぐるりの暮しの動きに目を凝していた。散髪屋の二男が自動車の免状をとってトラックをやるつもりだそうだという噂をきいたとき、お茂登の頭に閃いたのは、二人の息子がいなくなってしまった後の閉めっぱなしになった自分たちの店の車庫のがらんとした姿であった。涙とも云えない涙が目頭に滲んだ。
「碌さん、本当にやる気だろか」
 広治は、窮屈そうにおっ立て尻をして新聞の上にかがみこんだまま、
「さあ……」
と云ったぎり黙っている。然し、いい気持でなくその話をきいていることは、広治のどこやらむっと口をつぐんでいる若者らしい横顔に見えている。
「マア、
前へ 次へ
全15ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング