たりではなかった。クラブのような仕事は、本当に人々の話相手になれるだけの婦人として人生の経験をゆたかにもった人が中心にいなければならないし、同時に常にわかわかしくて、人間の希望的な情熱を失わない人でなければならない。日本は半封建の社会で婦人の活動場面が非常に狭いから、婦人団体といえばその狭いなかで、互にぶつかりあったり、そのぶつかりを既成勢力に利用されて結局、婦人ボスのあらそいとなったりしてきた。婦人民主クラブは、少くとも人間として社会に生きようとする全日本の婦人の友だちでなければならないし、どんなに弱々しい誕生をしたにしても、日本がまた再び戦争にまきこまれないためには、真実の努力をおしまず平和をかちとるための存在でなければならない。
 当時クラブ出発に関係していたいろいろの婦人たちの賛成を得て櫛田ふきさんが、実務の担当者となったことは、彼女の亡き良人が経済学者の櫛田民蔵氏だからではなかった。ふき子という彼女その人の婦人としての生活経験と、人間としての可能性によってみんなの信頼を得たのであった。
 婦人民主クラブの小さい看板が鷺宮の櫛田ふきさんの住居にかけられた。そして趣意書を印刷し、
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