その先の問題
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)前よりはまし[#「まし」に傍点]にこしらえる
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どんなひとも、贅沢がいいことだと思っていないし、この数年間のように多数の人々が刻苦して暮しているのに、一部の人ばかりがますます金銭を湯水のようにつかう有様を目撃していれば、いい気持のしないのは自然だと思う。今度の贅沢品禁止が、めずらしい人気で一般に迎えられたのも、この心理に即した面があったからだったと考えられる。贅沢をして暮すことなんかできない人々は、日頃贅沢をしてそれが自分たち人種の優越のしるしででもあるかのように振舞っていた人々が今度の禁止で、バカ贅沢ができなくなったことに一味の清涼を感じたのであった。
若い女のひと、まじめに働いている若い女のひとたちの心持に、今度の禁止が、そりゃそうだわねえ、と同感を生んだのは当然であろう。
だが、しずかに考えてみると、現代の日本らしいその感情も、いろいろに落付いてかみわけられなければならないことがわかってくる。第一は三百円の月収を標準として立てられた物の価の限界が、はたして私たちの現実生活にどんな実際のかかわりをもって作用してくるだろうか。ここに五十円月給をとっている娘さんがあるとして、その娘さんはおそらく決して二十円の草履は買わないだろうと思われる。大奮発で五円の草履を買う。五円の草履は贅沢品ではない実用品だけれど、その五円の草履の実質は、どんなにもちのよいしっかりしたものだろうか。二十円以上の草履をこしらえてはいけなくなったために、草履屋は五円の品物を前よりはまし[#「まし」に傍点]にこしらえるというようなことがあり得るだろうか。上へ上へと吊り上げられて行ったものが、禁止で、下へ下って一般生活の質の向上としてひろがって来るかといえば、どうもそういうことには行かなそうである。やすいもの、皆が買うもの、やっぱりこの価ではこれ位のものか、という状態に止まるらしい。そうだとすると、贅沢品禁止で何となく胸がスーとした感情は、そういう感情を味わったというやがて忘れられてゆく一つの経験にとどまっているだけで、多数の若い女のひとたちの生活は実質的に変ったところはないことになる。わずかに、自分のできない贅沢は、ほかのひとももう大ッぴらにはやれなくなっ
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