たのだ、という淡い快感があるばかりなのである。
 自分で働き、自分の汗の価を知っている若い娘さんにとって、この一種の社会的な快感は誇りにも通じるところがあるだろうとも思われる。けれども、本当に聰明な娘たちは、そのぼんやりした快感や裏づけられた誇りに、何か安心ならぬものがひそんでいることを感じとっているにちがいない。
 病気しているひとが、ひとも病気になったときいて、気の毒がりながら何となし自分だけではないという気休めを感じることがある。その心理は、無理ないことかもしれないけれども、さらに心の高い人だったらおそらく、それをきいて小さい気休めを感じるより強く深い真心で、それはいけない、一日も早くなおって下さい、というだろうし、その方が人間としてましな態度だということを、誰しも知っていると思う。
 贅沢禁止のこととこの場合と全く同じということはできまいが、自分たちばかりではないのだ、という気休めで逆に日々の生活の悪条件に馴れて安心してしまうことがあるとすると、それは社会の本当の進歩のために、悲しむべきことになるだろうと思う。
 どんな困難にもたえる力は必要である。贅沢はもとよりいらないことである。けれども人類の歴史は常に進歩に向って動いて来ているので、その間に生じる鋭く深刻な矛盾で、当面の生活にどんな障害や停滞や退歩がおこり、生活の低下が生じたとしても、私たちがそれをのりこえてゆく努力の方向は不変に進歩への方角の探究でなくてはならないはずである。どうせ誰だって外米をたべているんだからとすてて考えず、外米をたべることを躊躇しないとともに、その外米は現在の力で求めうる一番正当な価格のものか、外米に不足なヴィタミンBを何で補って健康を保ってゆくかという点をも積極的に考えてゆくべきである。望ましくない事情も、必要とあれば雄々しくたえながらしかしそれをより望ましいものに代えてゆくための努力が忘られてはならないのだと思う。どんな悪条件だっても私は平気だと自己満足に止まる心理は、しっかりとしているようで実はきわめて快い退歩的な態度だと思う。婦人の堅忍な心で難局をしのぐということの真の意味は、最低でも皆そうだからと変にすてて、安心した生活態度をさしているのではないことは明らかなことだと思う。



底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版
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