その柵は必要か
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)しん[#「しん」に傍点]になるものとして
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 こんにち、「勤労者文学」の問題が、とくべつの関心のもとにとりあげられるということは、全体として民主主義文学運動が、一つの新しい発展の段階にふみだして来ていることを語ると思う。この課題について、わたしは自分として一定の見解を主張するというよりは、むしろ、みんなの手近にある『新日本文学』『文学サークル』『勤労者文学』などを見直して、そこからひき出されて来る具体的な論点をあらまし整理し、発展させてみる方が、実際的だと思う。

        一 「勤労者文学」という規定についての疑問

 新日本文学会の第三回大会(一九四七年十二月)で徳永直から民主主義文学運動における「勤労者文学」の現状についてという報告ならびに提案があった。提案の主旨は日本の人民的な民主主義革命を達成する主導力は、労働者階級であるという点から出発した。一九四八年二月の新日本文学をみると徳永直は「勤労者文学をもっと前におし出すこと」という表題で、みじかい文章をかいている。そのなかで彼が第三回大会で報告提案した「勤労者文学を前面におし出すこと、日本の民主主義文学は勤労者文学の前進なしにはつよくなることができないこと」そして「これを納得するか否かが第三回大会の眼目の一つである」ということを力説したかったとのべている。これは、当日徳永直の報告および提案が時間にせかれて充分説明するゆとりがなかったことを意味している。
 大会のその日、徳永直はこまかく準備して来ていて、彼の「勤労者文学」を規定する社会的基盤の図表を示した。わたしの席は後でそれをみることができなかった。が説明によって理解したところでは、民主革命の推進力である労働者階級を主軸としてその同盟者としての農民、勤め人、中小商工業者、近ごろはアルバイトの必要から勤労生活にとけこみつつある学生、これらを概括して「勤労者文学」の基盤とするといわれたようだった。きいていて、わたしは疑問にうたれた。人民的な民主主義革命の見通しは労働者階級の勝利とそれによって達成される社会主義への展望を主軸としている。その意味で労働者階級の文学が民主主義文学の主軸であることは明らかである。農民階級が土地革命についての理解(土地を農民へ)の範囲においてにしろ、もっとも近い同盟者であることも明らかである。主にこの二つのものにプロレタリア文学運動時代の社会的基盤の規定は、おかれた。日本では、第二次大戦による現実からファシズム、帝国主義とたたかう民主主義文学の地盤はひろげられて、この軸に小市民に属する中小商工業者、勤め人、学生など複雑でひろい市民層を含める人民解放のための戦線ができたわけだった。徳永直の報告をきいているうちにいくつかの疑問がおこった。
 第一、民主主義革命とその文学の社会的基盤の一部分だけがなぜ任意に「勤労者」というはっきりしない規定でカッコされ、切りはなされたもののように押し出さなければならないのか。
 第二、「勤労者文学」の規定のなかで労働者階級を主軸とすると前提されながら、労働者階級の見とおしにたって、当然そこから生れるプロレタリアートとしての文学にふれられないこと。中小商工業者も、学生も、ずらりとならびに包括されている勤労者という概括の中で労働者がただなんとなししん[#「しん」に傍点]になるものとしてだけ、語られているようなのはどうしてだろう。
 第三、労働者階級の文学として当然そこにあらわれるプロレタリア文学者、その出身いかんにかかわらずプロレタリアートの歴史的任務の見とおしに立っている前衛的作家及び革命的、進歩的、良心的インテリゲンツィアの文学は、どうして除外されなければならないだろうか。これらの点が疑問であった。
 第三回大会はもり沢山の大会で、この重要な提案が時間たらずでしりきれとんぼになったばかりか、さらに次の日、ひきつづいてこの問題を討議することもされなかった。大会の空気は何となし散漫だった。「勤労者的なものを無意識にしろさえぎる空気は、新日本文学会にも底流している。素朴なもの、具体的なもの、日常的なものつまり勤労者的なものに対する挑戦は、文壇ですでにおこっている」と徳永直が書いたことには、次のような当時の事情もあったと思う。
 一九四七年は、一方でサークル活動がたかまり、「町工場」その他労働者によってかかれる作品がでてきたし、全逓の文学コンクール、国鉄の集団的文学活動など新しい民主的文学の芽がもえだした。けれどもその半面では、ドストイェフスキーばりの椎名麟三の作品が流行しはじめ、また新日本文学会と同時に活動をはじめた『近代文学』のグループが、つかみかかる相手をとりちがえたような熱中ぶりで近代的な「自我」の確立のためにと、過去のプロレタリア文学理論に対し小林多喜二の仕事に対し主観的で局部的な論争をはじめた。人民的民主主義という新しい歴史の課題やその文学運動がはじめられたことに懐疑や反撥を感じている人々が、この現象を面白がってグルリからはやしたてたから、『近代文学』のグループのある人たちの議論は、必要以上に無責任なジャーナリズムの上で賑わった。この『近代文学』グループの発言に対して、新日本文学会のメンバーたちが必要な討論を行ったのは当然であった。がその討論ぶりは、必しも上々のやりかたではなかった。新しい文学をのぞみ、それを生もうとする多くの人々に、民主主義文学運動というもの全体の、新しい可能性を知らせ、その大展望の上ですねてみたり、じぶくってみたりしてもはじまらないということを理解させてゆく努力が及ばなかった。『近代文学』のある人々の小市民的な弱点に対して新日本文学会内の小市民的弱さ、局部性、多弁が強く現れた。一時的にせよこの状態が民主主義文学運動を総体的に前進させることをおくらした。狂わせた。「無意識にもせよ、素朴で生活的な勤労者的なもの」への注目を乱した。この一種の混乱が、第三回大会で、運動としての統一的活動の必要について自己批判を生み、一方、小説部会の報告にあらわれたような、民主主義文学運動と作品についての評価の基準の喪失をもたらした。この民主主義文学運動として客観的な評価の基準が失われていたという事実が「勤労者文学」の規定についてもまじめな研究をよびさまさなかった理由である。
 すくなくともわたしのふれた範囲では、「勤労者文学」の規定について、ふみこんだ討議がされないままに、『勤労者文学』が創刊された。民主主義文学の理論にたずさわる人まで既成の熟語のように「勤労者文学」という言葉を用いるようになった。そういう事情いかんにかかわらず、『勤労者文学』は、この二年の間、民主主義文学の新しい土地をひらき、新しい作家をみちびきだし、価値を否定することができない努力をつづけて来たのである。

        二 現状について

『文学サークル』第九号に、『勤労者文学』の発展をめざして行われた徳永直と小田切秀雄の討論の要約がのせられている。アンケート用として整理されたものである。両者の主張の整理のしかたに、整理した人のはかり[#「はかり」に傍点]のかたむきが解答への暗示となってちらついているし、アンケート用として適当だと感じられない。が、大体この討論は小田切が「革命性ぬきの勤労者文学」と批判したのを反駁して徳永が労働者階級の文学の革命性というものが具体的に、こんにちまでどんな経路をたどって来たかを主張している討論である。このアンケート用に整理されている徳永の議論を、同じ号にのっている座談会記事「勤労者の文学をどう前進させるか」第二回のなかでの徳永自身の話、岩上、坂井などの話とてらしあわせてよんでみると、きわめて示唆にとんだこんにちの諸問題が発見される。創作の実際にふれての話だけに問題はいきいきとしている。
 座談会のこの部分では、第一に徳永から「もっと深くつっこめ」ということが云われている。ブルジョア文学の悪い影響をうけて、あさくまとめている。小説を勉強すると、小説ばかりよむような勉強の仕方そのものが注意されなければならない、といわれている。それに対して国鉄詩人の鈴木茂正が、この小説の浅い深いについて興味ある発言をしている。浅いといわれるのは「例えば船山馨という人たちが書いているものですよ、どういう風に生きていくかということではなくて、何か別の世界、非常に観念のあそびみたいなものを書いてゆく」「しかし勤労者が小説を書く場合には、どういう風に生きていったらいいかということからともかく出発している。むしろ専門家[#「専門家」に傍点]の方にそういうゆき方にたいする批判をしなければならない」と。それに対して徳永直は、鈴木茂正のその言葉をきいたら「船山は怒るよ」といっている。「船山は船山流で世の中には宿命しかないといったふうな考え方が真実と思い追求しているよ。真実を追求しているという点では彼もそのつもりでいるわけだ。ただ追求のし方の方法が違うわけだ。それからそれに対する観念がね。」
 徳永のこの答は、何だか変な気がする。鈴木茂正も徳永直もひとくちに専門家[#「専門家」に傍点]と云っているけれども、実際には専門家の中にも民主的作家としての専門家、過去の文学の枠内での専門家、また商業主義的なジャーナリズムの上に発生している作家としての専門家の間には、はっきり区別がある。その区別は本質的なものである。ひとくちに専門作家といっても、船山馨と志賀直哉、またこの二人と徳永直とが同じ本質に立つ作家だろうか。もちろんわたしたちはそう思っていないのである。
 民主主義文学は、小市民の生活感情や現実のうけとりかたにたってかく作家も疎外しない。しかし、それは、その人なりの世界のうちに暴力的な支配や、戦争や、一般人間性をころす力への抗議がふくまれているという時に、民主的な方向へのつながりができるのである。苦悩の身ぶり、宿命の観念にはまりこみきれないもがきの手が、解放にたたかう人々の手と、むすばれてゆくのである。その人その人が、主観的な枠のなかで、その人としては本気に追求しているという、そのことだけに評価はない。ここのところを、わたしたちとして、問題にしなければならないのは、第三回大会以来今日でも、まだ民主主義文学運動の中には、多様で、具体的で、しかも歴史の課題との角度を明瞭にした批評の態度が確立しているとは云えないからである。そして、このことは徳永、小田切の論争その他を、個人的に対立した見解の応酬に陥らせ勝であるばかりか「勤労者文学」の規定そのもののあいまいさを客観的に見極めて、民主主義文学運動全体を発展させてゆく評価のよりどころさえも見失わせる危険をもっているからである。
 現実からかきはじめていることは価値のある本質だが、まだ「労働者として大事な事柄があまり書かれていない[#「労働者として大事な事柄があまり書かれていない」に傍点]」。現在労働者は「この二年間にずいぶん大きな闘争をやっている」。その労働者[#「労働者」に傍点]の「いきごみ、みとおしというものがでていない。」「現実にとっくんで解決がつかないでもいい。とにかく現実の大問題をつかみ出してくるという記録文学運動というものは、意識的にサークルにいまおこさなければならない。」と、岩上順一はいっている。徳永直もこの点にふれて自分がいい出した「日常性」から書くということを、ストライキや組合運動をぬきに理解されている不満を語っているのである。「例えば恋愛をかく。デモの帰りに彼女とお茶をのんだりすることもあるわけだ。するとデモは書かないで、喫茶店のことばかり書く、そういう日常性の浅薄さ、日常性のブルジョア的解釈へ書く方も、批評する方も、ひきずられていることがよくない」と力説している。そして「ストライキをとりあげた作品が勤労者文学にひとつもでてこない、これは勤労者文学にとって一番打撃ですよ」と。編輯者は、ここに「
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