ストライキをかけ」という見出しをつけているのである。
 この前後のくだりは、民主主義文学の発展のために本質的な問題をむき出していると思う。徳永直の「『日常性』のなかから書く」という論が、小田切への反駁として云われているように、常に労働者[#「労働者」に傍点]として当面する現実の中に革命的モメントを見出してゆく態度をもふくめたものだという理解が、こんにちまで徹底的にゆきわたっていたら『勤労者文学』に対する徳永自身のこの不満もおこらなかったろう。そしてまた、徳永自身、船山についての鈴木茂正の感じかたを肯定したことだったろう。
 なぜ、いまのところ労働者は、そういう作品が書けないかということについて、東京重機の吉田文雄は、意味ふかい説明を与えている。吉田文雄の話は、こんにち自覚した組織労働者が、もう「太陽のない街」や「党生活者」の真似をしても、それでは生きた小説が書けない新段階に生きていることを語っている。こんにちの社会的現実は複雑で、労働者の闘争の方法も多種多様である。それをつっこんでゆけば、「もう日本の金融資本の実体を文学の上にかかなければならぬと思うのです。」「社会を描かなければならない。」それを書かないで「本当のストライキの情勢はかけない。そういう風になってくるからなかなか書けない。」「実際経験して分っていても、感情とか意識というものが、そこまで発達していないために書くことができない」といわれているのである。これはがんみ[#「がんみ」に傍点]しなければならない言葉である。
 最近二、三年のあいだに、五〇〇万人の労働者が組織されて画期的な闘争が経験された。積極的にそれらの経験をした人の中から、こんにちこの言葉が実感をもっていわれているのは、労働者の文学がただ政治・経済闘争の反映だけでは足りないと自覚されてきているという大きな内容的前進を語っている。同時に、一人の労働者が階級社会の中で民主的労働者として成長してゆく人間変革の過程が、どんなに複雑なものであり、一定の時間を必要とするものであるかという証拠である。こんにち、吉田が語るようなギャップが感じられるのは、経験された闘争の過程そのもののうちから、労働者として階級的な人間成長の実感が育てられるような政治的・文化的モメントがひきだされなかったこと――経済主義的な傾きがよりつよく支配していたこと。ならびに民主主義文学運動が、日本の民主化の現実につきこんで、その創作活動と批評活動の能力を統一して働かし、民主革命の多様な課題と、生活、文学の有機的なつながりを明示してゆく任務について、十分積極的であるとは云えなかったことを原因としているのではないだろうか。
 この事情は、ちがった形で「専門作家が、積極的にそういうものを要求していながら、書いていないから僕らは何を書いていいか分らない」という言葉としてもあらわれている。坂井徳三が専門作家の「見本をみることができない」「やはり民主的な専門作家たちの作品の影響力がまだまだ少い」と補充している点にもうかがわれる。
 だいたい、文学に、そっくりそのままを見ならったり、模倣したりする意味での「見本」というものは無いのが本質である。どんな立派な古典的作品にしろ、そこからわたしたちが学びとって来るのは、まずその作品に描かれている世界が作品の具体的な感銘によって当時の歴史的・階級的な社会の発展の中で、どんな位置と意味をもっているかという点である。その作家はその作品のテーマに、階級的な社会人・作家としてどんな角度から関心をひかれているだろうか。その作家がその作品を描くにあたっての創作の方法、文学的な美および善とされているものの性質、それらを作品の生きている感銘そのものにおいて分析、綜合して、より新しいより多面な創造の養いとしてゆく、その過程においてこそ、一つの文学の勉強がある。古典の再認識にあたって、また現代の文学作品の評価にあたって、民主主義文学としての評価の客観的基準が求められるわけはここにある。そのまま真似ができないということから云えば、ゴーリキイのどんなすぐれた作品にしろ「見本」ではない。けれども、その作品の世界に描かれている社会的・階級的現実の本質を理解し、作品においてその本質の細部を感覚にうけとれるものとして実在させている描写の方法やその特質を理解して、自分の描こうとしている作品への参考としてゆく意味では、こんにち、現れている数人の民主主義作家の作品も、それぞれに学ぶべきものをもっているのである。
『勤労者文学作品集』二冊は、商業雑誌の「新人号」二冊と同じ歴史的意義しかないものだろうか。「泡沫の記録」「妻よねむれ」「播州平野」その他は、民主的文学以外のどこに、生れ得る作品だろう。文学作品がそういう風に、同時代に生きているものとして生きかたをしめし、考えかたをしめし、現実を示すものでないのなら、文学が「人生の教師」たり得るわけはなくなる。文学作品は、一生小説を書くことのないおどろくべき数の人々によってよまれている。その人々は、小説の「見本」をさがしてはいない。鈴木茂正が云っているとおり「どういう風に生きてゆくか」ということを、自分にはっきりさせたい、わかりたい。それを知って自分の人生に評価を発見したくて、読むのであると思う。
 民主的な文学のなかでも前進する歴史の第一列に立つ労働者階級の文学が「どういう風に生きてゆくか」に出発して、しかもその全階級の課題の遂行のうちに、その人個々の複雑な成長発展の解決もふくめている場合、民主的文学のひな型として「見本」のあらわれるのを待つ観念は、ある危険をふくんでいる。なぜなら、もう日本の民主化の第一歩は、勤労者階級が半封建的な軍国主義的な支配階級の思想体系――文化の影響から、自分の階級の生活感情、理性の全部を解放し、新しい形であらわれて来ているファシズムとたたかう方向においてふみだされた。ここにおいて必要なのは、現実から鋭く具体的に何を学んでゆくかという、その学ぶ方法、発見し、うちたててゆく積極的な方法が労働階級の実力として身につけられることである。座談会をみてもこんにち自覚した労働者にとって民主的文学の創造の問題は、題材主義から成長し、プロレタリアの善玉悪玉からぬけ出ていることがわかる。作品のうちに目前の現象を描くばかりでなくその背後の奥ふかい社会的本質までを描こうと欲しられており、それを、階級的人間の実感によって描こうとのぞまれて来ている。だが、そこには、座談会にふれられているように階級人として未成熟であるという自覚がギャップとしてあるのである。こういう段階にまで育って来ている民主的文学の潮さきを「見本」をまつ気分に固定させるようなことがあれば、それは、わたしたちが我から人民の民主的可能性を窒息させることにひとしい。また同じことの別のあらわれとして、ある作品の民主的文学としての本質を理解し得ない働く人が、題材からだけみて、その世界は私たちの世界でない、と否定することまでしかできない場合、批評家がそのままその意見に追随して、だから働くものの文学は働くものの手で、と外から激励するだけでも、労働者階級の文学が育ってゆくことはできない。「どういう風に生きてゆくか」という実生活の課題を文学にもうつして、「どういう文学か」ということを追求し、ぎんみし、学んで自分からも作ってゆく民主的文学の自主的発展の能力がつよく、みずみずしくつちかわれて[#「つちかわれて」に傍点]ゆかなければならないのである。
 吉川英治は、なぜ「太閤記」「三国志」「親鸞」「宮本武蔵」というような題材ばかりを選ぶだろうか。それは封建時代の昔から、「百姓、町人」の間にききつたえられ、語りつたえられているテーマだからである。「太閤記」は古く日本につたわっている。芝居もある。猿面冠者の立身物語は、そのような立身をすることのない封建治下の人民に、人間的あこがれをよびさますよすがであった。自分の生涯にはない、境遇からの脱出の物語だった。太閤記と云う名をきいただけで、日本の庶民の伝承のうちにめをさます予備感情がある。だから、戦時中は小才のきく部隊長のような藤吉郎が清洲築城に活躍しても、よむ人は、逆に、やっぱり秀吉ほどの人物は、と、自分たちが非人間に扱われている現状に屈する方便に役立ってゆくのである。吉川英治は、青苔のついた封建の溝をつたわっている。こんにちエロティックな文学、グロテスクな文学、自虐的な文学、それぞれが、このがたぴしした資本主義社会生活の矛盾そのものの中に自分をらく[#「らく」に傍点]に流してゆく溝をもっている。これに反して、新しい人間生活のために暗渠をつくり、灌漑用水を掘り、排水路をつけて、自身の歴史をみのらしてゆこうとする事業は、まったく新しい事業である。一揆、暴動などという悲劇的な正義の爆発の道をとおらずに、人民の全線が抑圧に抵抗しようとする事業は、わたしたちにとって新しい。この広汎な人間的めざめを土台として、新しい民主的作品が大衆の生活に浸透する必然をもちはじめたのである。この現実から民主的文学運動における批評は、全く新鮮な任務を帯びている。民主主義文学運動の批評活動は、ブルジョア批評の仕事のように一つ一つきりはなされた作品の枠内での研究、またはせいぜいある一人の作家の限界内にとどまった系統的研究から、ひろく大きく人民の民主革命の現実の中に解放された。批評活動と創作活動とは、ともに、刻々前進する人民の歴史によって生れつつ、またその歴史のよりのぞましい変革のために作用してゆく有機的な人民階級の能力の一表現となってゆかなくてはならないと思う。
 現在の状態では、サークルの活動も、いろいろの問題を重ねて来ている。職場のサークルが、小説を書く人中心になりがちで、そのほかのサークル員の吸収をはばんでいるということが注目されて、新日本文学会は、文学の愛好者の意味を見直すように提案している。文連の第二回「文化会議」のサークルに関する懇談会記事に云われているとおり、読むことによって成長させられてゆく面はゆるがせにできない。サークルの文学愛好家たちを、その範囲で高めてゆくことはもとより必要である。けれども文学の面では愛好家と云われる人の間にブルジョア風な文学趣味[#「文学趣味」に傍点]がかなり浸透しているとき、民主主義の方向における批評のよりどころがはっきりつかまれていなかったら、愛好家たちが文学愛好そのものから変革された階級的人生に入ってゆく可能が、どういう風に予想されるだろう。文学サークルが組合の教・宣部の活動と歩調をそろえていないというあちこちにある現象の一半の理由は、これまでサークルに集る人々の文学的欲求を、ブルジョア文学の伝統的な文学[#「文学」に傍点]の形態にはめて、考えていた古さ、せまさもあると思える。小説、さもなければルポルタージュ。これまでは、そういう大きい文学的[#「文学的」に傍点]区わけで話された。だが、そのほかにサークルの人々の文筆的な表現は職場の壁新聞に生かされることができるし、労農通信という方向で、どう生きてゆくかというその問題にたってひらかれてゆく可能もある。
 現在いろいろな成員をもっているサークルの、どこかで流通のとどこおっている空気のまま、岩上順一が座談会で力をこめて云っているように労働者として「一番大事なもの、闘争なら闘争の一番進んでゆく道」を記録としてかくように「意識的に」サークルを刺戟したとしても、果して意図される成果がもてるだろうか。これまでのところ、文学サークルは多種多様の成員をふくみながら全体として文学を通じて民主的な人間成長、勤労者階級間の諸関係についての自覚、つまり感情や意識を民主的労働者として統一的に高めてゆく場所の一つとして、十分の活溌さにまで働きかたを会得させられていない。「最もおくれた労働者の間にも『活字にのせたい』という本格的情熱――掠奪と圧制の上に築かれた現代の社会秩序全体とのたたかいのこういう萌芽的な形態への情熱が発表している」というレーニンの人間らしい洞察に立って具体的モメン
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