トをさがしてゆくと、サークルの端緒的な文学的活動の可能性は豊富で、一方には小説や詩をかく人、そのほかは愛好者たちとわけただけでは、あまり多くの潜精力が眠らされることがわかって来る。
 徳永直は専門家の立ちおくれの克服にふれて、「専門家と現在職場にあるものとが、手を握って共同的にやらなければ」前進的な文学は発展しないと云っている。そのことは、組合の文化的成果の例からも云われるであろう。
 産別会議情報宣伝部が編輯し、出版した『官憲の暴行』という戦後労働運動弾圧の記録がある。現場の労働者によってかかれたらしいこの記録が、もっと各現場組合の文学的能力を生かしていたら、どんなに浸透的で永続する読後感を一般の読者に印象づけることができただろうかと、残念に思った。強い組合から新しい作家がより多くでる傾向があるといわれている事実と考えあわせて。また、徳永直が、愛光堂の事件には、現場へも接触をもっていたような話をきいたことを思いおこして。
 民主的な作家がサークルに接触するときはその作家として一つの作品をつくるためばかりでなく、サークルの人々そのものの成長のために考える必要がある。小説をかく人々を育ててゆくばかりでなく、それ以前の民主的人生のために。ある種のサークル指導者が、新日本文学会の評論家、作家をよんで、話すことだけは話させておいて、それっきり、あとを発展的に生かさないで、ときには嘲弄的な批評を加えることがあるという風なことが実在するとすれば、それは、民主的文学をそだてる大局から考えなおされなければならないことだろう。文化団体の活動に参加することを「人質にとられる」という形容でかかれているのをおどろいてよんだこともある。
 それにつけて、一九四六年のはじめの新日本文学会創立大会の日のことを思い出す。その日、サークル活動についての提案者は、わたしだった。まず過去のプロレタリア文学運動時代、サークル活動が、当時の社会状勢から経済・政治闘争に従属させられたり、それらの組織の準備的なものと考えられたりして文化・文学サークルの独自性は消滅する欠陥をしめしたことを率直に批判した。そして、サークルの独自性を強調しつつ、「サークルのできた地域や職場の日常生活との現実的なつながりで、おのずから組合の闘争や政治闘争との連関を生じるだろうし、それを文化・文学サークルだからというたてまえから拒否することは間違いであるが」、文学サークルは、その独自性を守って指導されるべきものであろうと提案した。
 この提案に対して、幾人かの人が手をあげた。討論の中心は、文学サークルが経済・政治闘争と無縁であり得ないという点と新日本文学会の指導のもとにおかれるべきかどうかという点にむけられた。もし経済・政治闘争と無関係であり得ないということを肯定するならば、結局プロレタリア文学運動時代のサークルに戻ってしまうのではないかという質問が、いくつかの角度からだされた。そしてそれらの質問者は、発言に当って現に自分が労働者の中にあって文学指導をしている経験からおして、と前置きしていた。提案をうけもったわたしは、サークルと職場、組合などとの連繋は機械的には考えられない、政党や組合の活動が自由になったこんにちでは、そこに労働者のもっている文学能力がそのものとして役立てられる可能が見出されるだろうと答えた。こんにち新日本文学会で活動している当日の発言者は、四年昔をかえりみて歴史の足どりの速さにおどろかれるだろう。

        三 展開のみとおし

 第四回新日本文学会の大会は、第三回にくらべると、すべての点でより全運動の見地から報告討論されたらしく思える。(わたしは病気で欠席し、最後の日の数時間出席したばかりであったが)しかし、「勤労者文学」のことは、前大会での提案者徳永直の報告に一任されている。「民主主義文学運動についての報告」(岩上順一)の、最後の部分「日本民主主義運動の深まりやはげしさを強力に反映する創造や批評の活動につきすすむ」必要、「全人民の民主化運動のなかに成長しはじめている」「市民層知識層の活動もけっして見のがされてはならない」という部分と、そのためには「勤労者文学」について新しく大きい見かたが緊急に必要ではないかという点とが、かみ合わされていない。勤労者文学対策の強化、作品指導キカンの設置、講座、学校、入門書の発行、などがあげられているだけで、きょうの段階では、どうしても「勤労者文学」という規定そのものが見直されなければ民主主義文学運動全体として発展しにくいという基本点はとりあげられていなかった。
 この大会での「勤労者文学の前進」という徳永直の報告は作家らしくこまかい気くばりにみちたものである。かんでふくめるように述べられている。けれども、少くともわたしは、報告者をあのように細心に努力させているそのことが「勤労者文学」の柵がせまくるしくなって来ていることを語っているという感銘をうけた。視点を前方につけつつ、爪先は細心に足もとをふみわけようとされている。そこに、何となし無理を感じる。この微妙な無理は、報告の冒頭の「勤労者文学を民主主義文学のうちの一派とみる傾向」云々をふくむ大まかな一章のうちにも感じとれるし「足ぶみ状態と第二段階」の、かみわけて云われている勤労者の「意識的努力・観念的たかまり」についての部分などにも、云われるべくして云われずにあるものが感じられる。「勤労者文学」の規定はその自然発生期を明らかに通過した。報告の中では「意識的努力・観念のたかまり」文学以外の多様な勉強の必要ということが、どれもこんにちの労働者と階級の問題としての具体的な方向を示さずに語られている。しかし座談会での話をみても、意識的な労働者が自身に必要と感じているのは、労働者階級としての意識のたかまりであり、理論と生活上の実践が統一された階級者としての感情の成長である。観念としてより強く高くと欲求されているのも、それは決して無差別な「哲学」「観念」ではなくて現実にわれわれの歴史がおもてをつき合わしている民主主義革命についての見とおしある観念、「どう生きてゆくか」についての判断、行動にプラスを加えるものとしての観念が求められている。よしんば働く人がブルジョア的な哲学や観念、自意識に魅力を感じている場合にしろ、その本質はやっぱりそれらの人々が、ひとの知っていることは何でも知りたいと希う、労働者階級の要求として、その方向に発展させられてゆかなければならないことは誰にもわかっている。労働者階級にとって、多様な勉強が必要なのは、文学が文化の一つのジャンルであるからほかの部門の勉強も必要であるというだけではない。民主主義文学は、過去の半封建的文学やブルジョア文学の本質とはことなった、よりひろい前進的な社会的土台に立っているのだから、必然に、社会科学、政治、経済にふれて来ないわけにゆかない。日本の民主主義革命そのものが、労働者階級を中軸として、農民及び市民層、民族資本家までをふくむ共同を必要としている現実は、民主的文学に多様性をもたらすと同時に、互の階級間の生きた諸関係についての理解を、欠くことのできないものにしている。人民が権力によって統一的な民主と平和のための戦線を寸断されないために。人民別、専門別、職域別、都会対地方とセクト的な感情を利用されて孤立させられる危険を克服するために。
「労働者階級の意識は、たとえそれが如何なる[#「如何なる」に傍点]階級に関係したことであろうとも、恣意と圧制、暴力と濫用が行われたときは、いついかなる場合[#「いついかなる場合」に傍点]にも黙過しないようにならされているのでなければ、真に政治的な意識ではない」(レーニン・何を為すべきか)ということは、民主主義とその文学達成の基本となる意識であり感情であると思う。民主主義の精神と行動は単に「労働者の方へ行け」と云って満足することではなく、すべての階級のなかへはいってゆき、階級間のあらゆる相互的な関係のなかから、民主革命のモメントをとらえる能力でなければならないだろう。民主主義文学運動についての理解も全く同様だと思う。
 プロレタリア文学運動時代からの発展として、文学運動全体としての性格とその中の主導的要因としての労働者階級の文学が、はっきりさせられる時が来ている。
 こう考えて来ると、もういつの間にかこれまでの形での「勤労者文学」の柵はふみこえられてしまっている。でも、それでいいのではないだろうか。
 現在見えているいろいろの問題の性質と大会報告の印象から、わたしは、飾りけなくまた他意のない提案として、「勤労者文学」という柵を発展的にどけて、はっきりした歴史的使命をもつ労働者階級の文学を押し出して欲しい。そのことによって、民主主義文学全体としての関係をも正しく位置づけ発展させることができるのではないか。インテリゲンツィアをどけて、今、働いている人々、中小商工業者、学生などという社会階層の姿、即「勤労者」とする柵は現象的であったし、あいまいでもある。
 新しいファシズムに対して、どんな形で平和へのたたかいがはじまっているかということをみてもこの要求は自然である。革命的小市民の立場の作家から、もっとひろがって、進歩的、良心的作家までが、生活の剥奪と戦争への反対のために立っている。それゆえにこそ、狭くなった「勤労者文学」の柵はどけられて、よりつよくはっきりと労働者階級の文学の主導的な性格が押し出される必要がある。そのことによって、かえってのびのびと人民各層の文学的発言の可能が為されるだろう。
 中国の人民の勝利。国内の民主勢力の増大。それに対して第三次吉田内閣のファシズムと戦争への危険をむきだした政策。これらの三つの要素がからみあって、民主的文化運動の一部に、あおり[#「あおり」に傍点]が生じている。わたしたちは、リアリスティックに、この点を見きわめる必要があると思う。「文学サークルの現状に対して」という投書にもあらわれているように、労働者、小市民勤労者、農民、革命的インテリゲンツィアとしての学生までを、「勤労者文学」にこめて考えていても、生活の動きはきびしいから、でこぼこはひどくなる。労働者の文学は、プロレタリアートの文学として前衛の文学までをふくむが、「勤労者」をその線へ一括することは無理だし、小市民作家を、もと同伴者作家と見たように「吸収し[#「吸収し」に傍点]、手をつなぐ」ものとしてみることにも無理がある。それぞれのもちもの(文学的伝統をふくんで)を生かして、その上での前進を、共通の重点をとおして見てゆくという複雑さをおそれない方法がとられないと、それはゆたかに縦横むじんに育たない。いまのところやせている民主文学が、ぐっとのびるモメントは、ここにあると思えるのである。
 第二回文化会議で報告されているように、職場の文化活動サークルなどはすでにいろいろ困難に面し、とくに、組合が反民主的勢力に占められているとき、サークルの動きは、微妙である、というような課題が生じている。この際、一年前どおりの「勤労者文学」の考えかたのまま先へつづけると、そのある部分が思いもかけない左へゆきすぎて、うまいこと民主戦線分裂の挑発にのせられまいものでもない。サークルが昔の悲劇をくりかえしたり、文化団体の独自な活動が組合の宣・教に解消され、「文学は政治に従属する、」という言葉の、しごく粗雑な理解が、民主主義文学運動をこんらんさせないものでもない。『文化革命』第二号をよんだひとは、この注目が、根拠をもたないものではないことを理解されるだろう。わたしたちは、自分たちの運動そのものも発展的なリアリズムでつかむべきだと思う。『大衆クラブ』で菊田一夫と徳永直の間に往復された手紙をよんだ。そして徳永直が、民主的運動におけるインテリゲンツィアと労働者との連帯性について前進的に、客観的に語っているのをよんだ。そのことからも「勤労者文学」がさらに複雑でまた統一的な民主主義文学運動のうちにつよく展開する可能が感じられる。はっきり労働者の文学として、ふっきる部
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