ープが、つかみかかる相手をとりちがえたような熱中ぶりで近代的な「自我」の確立のためにと、過去のプロレタリア文学理論に対し小林多喜二の仕事に対し主観的で局部的な論争をはじめた。人民的民主主義という新しい歴史の課題やその文学運動がはじめられたことに懐疑や反撥を感じている人々が、この現象を面白がってグルリからはやしたてたから、『近代文学』のグループのある人たちの議論は、必要以上に無責任なジャーナリズムの上で賑わった。この『近代文学』グループの発言に対して、新日本文学会のメンバーたちが必要な討論を行ったのは当然であった。がその討論ぶりは、必しも上々のやりかたではなかった。新しい文学をのぞみ、それを生もうとする多くの人々に、民主主義文学運動というもの全体の、新しい可能性を知らせ、その大展望の上ですねてみたり、じぶくってみたりしてもはじまらないということを理解させてゆく努力が及ばなかった。『近代文学』のある人々の小市民的な弱点に対して新日本文学会内の小市民的弱さ、局部性、多弁が強く現れた。一時的にせよこの状態が民主主義文学運動を総体的に前進させることをおくらした。狂わせた。「無意識にもせよ、素朴で生活的な勤労者的なもの」への注目を乱した。この一種の混乱が、第三回大会で、運動としての統一的活動の必要について自己批判を生み、一方、小説部会の報告にあらわれたような、民主主義文学運動と作品についての評価の基準の喪失をもたらした。この民主主義文学運動として客観的な評価の基準が失われていたという事実が「勤労者文学」の規定についてもまじめな研究をよびさまさなかった理由である。
 すくなくともわたしのふれた範囲では、「勤労者文学」の規定について、ふみこんだ討議がされないままに、『勤労者文学』が創刊された。民主主義文学の理論にたずさわる人まで既成の熟語のように「勤労者文学」という言葉を用いるようになった。そういう事情いかんにかかわらず、『勤労者文学』は、この二年の間、民主主義文学の新しい土地をひらき、新しい作家をみちびきだし、価値を否定することができない努力をつづけて来たのである。

        二 現状について

『文学サークル』第九号に、『勤労者文学』の発展をめざして行われた徳永直と小田切秀雄の討論の要約がのせられている。アンケート用として整理されたものである。両者の主張の整理のしかたに
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