、整理した人のはかり[#「はかり」に傍点]のかたむきが解答への暗示となってちらついているし、アンケート用として適当だと感じられない。が、大体この討論は小田切が「革命性ぬきの勤労者文学」と批判したのを反駁して徳永が労働者階級の文学の革命性というものが具体的に、こんにちまでどんな経路をたどって来たかを主張している討論である。このアンケート用に整理されている徳永の議論を、同じ号にのっている座談会記事「勤労者の文学をどう前進させるか」第二回のなかでの徳永自身の話、岩上、坂井などの話とてらしあわせてよんでみると、きわめて示唆にとんだこんにちの諸問題が発見される。創作の実際にふれての話だけに問題はいきいきとしている。
座談会のこの部分では、第一に徳永から「もっと深くつっこめ」ということが云われている。ブルジョア文学の悪い影響をうけて、あさくまとめている。小説を勉強すると、小説ばかりよむような勉強の仕方そのものが注意されなければならない、といわれている。それに対して国鉄詩人の鈴木茂正が、この小説の浅い深いについて興味ある発言をしている。浅いといわれるのは「例えば船山馨という人たちが書いているものですよ、どういう風に生きていくかということではなくて、何か別の世界、非常に観念のあそびみたいなものを書いてゆく」「しかし勤労者が小説を書く場合には、どういう風に生きていったらいいかということからともかく出発している。むしろ専門家[#「専門家」に傍点]の方にそういうゆき方にたいする批判をしなければならない」と。それに対して徳永直は、鈴木茂正のその言葉をきいたら「船山は怒るよ」といっている。「船山は船山流で世の中には宿命しかないといったふうな考え方が真実と思い追求しているよ。真実を追求しているという点では彼もそのつもりでいるわけだ。ただ追求のし方の方法が違うわけだ。それからそれに対する観念がね。」
徳永のこの答は、何だか変な気がする。鈴木茂正も徳永直もひとくちに専門家[#「専門家」に傍点]と云っているけれども、実際には専門家の中にも民主的作家としての専門家、過去の文学の枠内での専門家、また商業主義的なジャーナリズムの上に発生している作家としての専門家の間には、はっきり区別がある。その区別は本質的なものである。ひとくちに専門作家といっても、船山馨と志賀直哉、またこの二人と徳永直とが同じ本質に
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