うに細心に努力させているそのことが「勤労者文学」の柵がせまくるしくなって来ていることを語っているという感銘をうけた。視点を前方につけつつ、爪先は細心に足もとをふみわけようとされている。そこに、何となし無理を感じる。この微妙な無理は、報告の冒頭の「勤労者文学を民主主義文学のうちの一派とみる傾向」云々をふくむ大まかな一章のうちにも感じとれるし「足ぶみ状態と第二段階」の、かみわけて云われている勤労者の「意識的努力・観念的たかまり」についての部分などにも、云われるべくして云われずにあるものが感じられる。「勤労者文学」の規定はその自然発生期を明らかに通過した。報告の中では「意識的努力・観念のたかまり」文学以外の多様な勉強の必要ということが、どれもこんにちの労働者と階級の問題としての具体的な方向を示さずに語られている。しかし座談会での話をみても、意識的な労働者が自身に必要と感じているのは、労働者階級としての意識のたかまりであり、理論と生活上の実践が統一された階級者としての感情の成長である。観念としてより強く高くと欲求されているのも、それは決して無差別な「哲学」「観念」ではなくて現実にわれわれの歴史がおもてをつき合わしている民主主義革命についての見とおしある観念、「どう生きてゆくか」についての判断、行動にプラスを加えるものとしての観念が求められている。よしんば働く人がブルジョア的な哲学や観念、自意識に魅力を感じている場合にしろ、その本質はやっぱりそれらの人々が、ひとの知っていることは何でも知りたいと希う、労働者階級の要求として、その方向に発展させられてゆかなければならないことは誰にもわかっている。労働者階級にとって、多様な勉強が必要なのは、文学が文化の一つのジャンルであるからほかの部門の勉強も必要であるというだけではない。民主主義文学は、過去の半封建的文学やブルジョア文学の本質とはことなった、よりひろい前進的な社会的土台に立っているのだから、必然に、社会科学、政治、経済にふれて来ないわけにゆかない。日本の民主主義革命そのものが、労働者階級を中軸として、農民及び市民層、民族資本家までをふくむ共同を必要としている現実は、民主的文学に多様性をもたらすと同時に、互の階級間の生きた諸関係についての理解を、欠くことのできないものにしている。人民が権力によって統一的な民主と平和のための戦線を寸
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