課題を文学にもうつして、「どういう文学か」ということを追求し、ぎんみし、学んで自分からも作ってゆく民主的文学の自主的発展の能力がつよく、みずみずしくつちかわれて[#「つちかわれて」に傍点]ゆかなければならないのである。
吉川英治は、なぜ「太閤記」「三国志」「親鸞」「宮本武蔵」というような題材ばかりを選ぶだろうか。それは封建時代の昔から、「百姓、町人」の間にききつたえられ、語りつたえられているテーマだからである。「太閤記」は古く日本につたわっている。芝居もある。猿面冠者の立身物語は、そのような立身をすることのない封建治下の人民に、人間的あこがれをよびさますよすがであった。自分の生涯にはない、境遇からの脱出の物語だった。太閤記と云う名をきいただけで、日本の庶民の伝承のうちにめをさます予備感情がある。だから、戦時中は小才のきく部隊長のような藤吉郎が清洲築城に活躍しても、よむ人は、逆に、やっぱり秀吉ほどの人物は、と、自分たちが非人間に扱われている現状に屈する方便に役立ってゆくのである。吉川英治は、青苔のついた封建の溝をつたわっている。こんにちエロティックな文学、グロテスクな文学、自虐的な文学、それぞれが、このがたぴしした資本主義社会生活の矛盾そのものの中に自分をらく[#「らく」に傍点]に流してゆく溝をもっている。これに反して、新しい人間生活のために暗渠をつくり、灌漑用水を掘り、排水路をつけて、自身の歴史をみのらしてゆこうとする事業は、まったく新しい事業である。一揆、暴動などという悲劇的な正義の爆発の道をとおらずに、人民の全線が抑圧に抵抗しようとする事業は、わたしたちにとって新しい。この広汎な人間的めざめを土台として、新しい民主的作品が大衆の生活に浸透する必然をもちはじめたのである。この現実から民主的文学運動における批評は、全く新鮮な任務を帯びている。民主主義文学運動の批評活動は、ブルジョア批評の仕事のように一つ一つきりはなされた作品の枠内での研究、またはせいぜいある一人の作家の限界内にとどまった系統的研究から、ひろく大きく人民の民主革命の現実の中に解放された。批評活動と創作活動とは、ともに、刻々前進する人民の歴史によって生れつつ、またその歴史のよりのぞましい変革のために作用してゆく有機的な人民階級の能力の一表現となってゆかなくてはならないと思う。
現在の状態では、サーク
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