、考えかたをしめし、現実を示すものでないのなら、文学が「人生の教師」たり得るわけはなくなる。文学作品は、一生小説を書くことのないおどろくべき数の人々によってよまれている。その人々は、小説の「見本」をさがしてはいない。鈴木茂正が云っているとおり「どういう風に生きてゆくか」ということを、自分にはっきりさせたい、わかりたい。それを知って自分の人生に評価を発見したくて、読むのであると思う。
 民主的な文学のなかでも前進する歴史の第一列に立つ労働者階級の文学が「どういう風に生きてゆくか」に出発して、しかもその全階級の課題の遂行のうちに、その人個々の複雑な成長発展の解決もふくめている場合、民主的文学のひな型として「見本」のあらわれるのを待つ観念は、ある危険をふくんでいる。なぜなら、もう日本の民主化の第一歩は、勤労者階級が半封建的な軍国主義的な支配階級の思想体系――文化の影響から、自分の階級の生活感情、理性の全部を解放し、新しい形であらわれて来ているファシズムとたたかう方向においてふみだされた。ここにおいて必要なのは、現実から鋭く具体的に何を学んでゆくかという、その学ぶ方法、発見し、うちたててゆく積極的な方法が労働階級の実力として身につけられることである。座談会をみてもこんにち自覚した労働者にとって民主的文学の創造の問題は、題材主義から成長し、プロレタリアの善玉悪玉からぬけ出ていることがわかる。作品のうちに目前の現象を描くばかりでなくその背後の奥ふかい社会的本質までを描こうと欲しられており、それを、階級的人間の実感によって描こうとのぞまれて来ている。だが、そこには、座談会にふれられているように階級人として未成熟であるという自覚がギャップとしてあるのである。こういう段階にまで育って来ている民主的文学の潮さきを「見本」をまつ気分に固定させるようなことがあれば、それは、わたしたちが我から人民の民主的可能性を窒息させることにひとしい。また同じことの別のあらわれとして、ある作品の民主的文学としての本質を理解し得ない働く人が、題材からだけみて、その世界は私たちの世界でない、と否定することまでしかできない場合、批評家がそのままその意見に追随して、だから働くものの文学は働くものの手で、と外から激励するだけでも、労働者階級の文学が育ってゆくことはできない。「どういう風に生きてゆくか」という実生活の
前へ 次へ
全16ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング