が、日本の民主化の現実につきこんで、その創作活動と批評活動の能力を統一して働かし、民主革命の多様な課題と、生活、文学の有機的なつながりを明示してゆく任務について、十分積極的であるとは云えなかったことを原因としているのではないだろうか。
この事情は、ちがった形で「専門作家が、積極的にそういうものを要求していながら、書いていないから僕らは何を書いていいか分らない」という言葉としてもあらわれている。坂井徳三が専門作家の「見本をみることができない」「やはり民主的な専門作家たちの作品の影響力がまだまだ少い」と補充している点にもうかがわれる。
だいたい、文学に、そっくりそのままを見ならったり、模倣したりする意味での「見本」というものは無いのが本質である。どんな立派な古典的作品にしろ、そこからわたしたちが学びとって来るのは、まずその作品に描かれている世界が作品の具体的な感銘によって当時の歴史的・階級的な社会の発展の中で、どんな位置と意味をもっているかという点である。その作家はその作品のテーマに、階級的な社会人・作家としてどんな角度から関心をひかれているだろうか。その作家がその作品を描くにあたっての創作の方法、文学的な美および善とされているものの性質、それらを作品の生きている感銘そのものにおいて分析、綜合して、より新しいより多面な創造の養いとしてゆく、その過程においてこそ、一つの文学の勉強がある。古典の再認識にあたって、また現代の文学作品の評価にあたって、民主主義文学としての評価の客観的基準が求められるわけはここにある。そのまま真似ができないということから云えば、ゴーリキイのどんなすぐれた作品にしろ「見本」ではない。けれども、その作品の世界に描かれている社会的・階級的現実の本質を理解し、作品においてその本質の細部を感覚にうけとれるものとして実在させている描写の方法やその特質を理解して、自分の描こうとしている作品への参考としてゆく意味では、こんにち、現れている数人の民主主義作家の作品も、それぞれに学ぶべきものをもっているのである。
『勤労者文学作品集』二冊は、商業雑誌の「新人号」二冊と同じ歴史的意義しかないものだろうか。「泡沫の記録」「妻よねむれ」「播州平野」その他は、民主的文学以外のどこに、生れ得る作品だろう。文学作品がそういう風に、同時代に生きているものとして生きかたをしめし
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