こわれた鏡
――ジイド知性の喜劇――
宮本百合子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)希《ねが》わなかった
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三七年十月〕
−−
ジイドが彼の近著『ソヴェト旅行記』に対して受けた非難に抗して書いている「ローランその他への反撃」という文章は(十月・中央公論)悪意を底にひそめた感情の鋭さや、その感情を彼によって使い古されている切札である知力や統計の力やによって強固にしようと努力している姿において彼のこれまで書いたどの文章よりも悲惨である。
現代のように錯綜し緊張し、処々ではもう火をふき出している歴史の大摩擦の時期に当って、かつて或る才能を証明し得た作家が、歴史の本質を把握し得ないために、どんなに猛烈な自己分解を行うものであるかという、深刻な典型の一つを、ジイドは身を以て示しているのである。この、壊れた鏡のような文章は、散乱して、震えて曲って局部が神経的に誇大された断片をうつしている。ギラギラとわれ目が光っていても、それはどんなにひどく、補填しがたく鏡が粉砕してしまったかを語っているに過ぎない。このことは、落付いた精神をもってこのジイドの一文を読む人々の総てに容易に直感されることであろうと思う。
ジイドのこの文章の翻訳のどこにも訳者の署名が無いのも面白く感じられる。それを訳したことを誇らかに思うような一つの偉大な、善意と努力に満ちた文章であったとしたら、訳者たる者はどこの隅にか自分の人間的寄与の跡をとどめたいと希《ねが》わなかっただろうか。
現実に対する洞察、理解、働きかけが、外見は全く同一のような二つの本質的に異る現象に対して正当な客観的評価を失ったとしたら、その結果は事実のありようを全然取りちがえることになる。卑近な例をとってここに一人熱を出してねている人があるとする。ところがその熱が或る日急に下った。さてこの現象は大いに慶賀してよいことなのだろうか、或は非常に警戒しなければならないことなのだろうか。
この場合、その答えを決定するのは、誰にも明らかな通りその熱の本質である。肺炎から出ていた熱ならば、ああ、それが下ったということは実にめでたい。しかし、もしその熱は、はしかのものだとしたら? 結果は全く反対の憂慮すべきことである。
ジイドも、彼の細君の発熱についてはそういう本質の差を知っており、又当然知ろうとするであろうのに、芸術家の死命を制する人間的叡智の根源において、歴史の相貌の質的相異の知覚を失っているばかりか、それを自ら恐怖しもしないというのは、何という憤ろしい一つの喜劇であるだろう。
ジイドは、ソヴェトに対して抱いていた自分の信頼、称讚、喜悦をかくも深刻に痛ましく幻滅の悲哀に陥れ、労働者を欺いている者はソヴェトの一部の特権者と無能な国内・国外の阿諛者達であるとしている。「勝負はスターリンにしてやられ」民衆は悉くスターリンの犠牲者であると声を振りしぼって叫んでいる。その事実の裏づけとしてソヴェト生産並施設の不充分な点について討論しているプラウダやイズヴェスチアの統計が夥しく引用されているのである。
もとよりこれらの統計は拵えものではないに違いない。本ものであればあるほど、その統計を読む人々の心には次の疑問が湧いて来ないであろうか。一体なぜ、ジイドによって食人鬼のように描かれている官僚どもは世界の眼前にこうやって平然と否堂々と自分たちにとって不利益な材料である筈の生産力の弱点や、計画の実践力における弱さ等をあけひろげてみせているのであろうか、と。
それは改善されなければならないからである、とジイド自身が説明している。「一度可決採用された計画の実行の問題に関しこの自己批判となると、大入満員の観がある」と。何故に、誰のために改善されなければならず、計画の実行の問題が重要なのであろうか。
ジイドによれば、人工的に過度に生産その他を強化する必要からである。その必要が現実にあるとして、それならその必要はどこから生じているのであろうか。ジイドは、信じられぬ程の偏執で、その必要は、スターリンの犠牲であり、欺かれたもの達である労働者の上に死刑執行人と、搾取者とが君臨して「ロシアの労働者は幸福であると、フランスの労働者に信ぜしめる為の莫大な宣伝費をつか」うためであると云っているのである。
これは今日の国際情勢にあって寧ろ余り素朴なデマゴキーであると云わなければならない。果してそういうのが現実であるならば、確にジイドが云っているとおり、そのようなことは余り知りたくもないし、知らせたくもなかろう。従って、ジイドが利用しようと努めているような統計や自己批判の公開もしないわけである。ところがそれがなされている。ジイド自
次へ
全2ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング