わたっているということの文化上の意義を、まざまざと感じたことがあった。
 この間、或る人が岩手県の方へ旅行したら、その町ではバスの運転手が若い娘さんになっていたそうである。その話をきいて私は何かしら新鮮な感動を覚えた。ここには自動車をうごかす女の生活としてこれまでにはなかったものがあらわされている。その地方の男の手不足のひどさが語られているとともに、バスの車掌さんではなく、運転手となった娘さんたちは、どんな一生懸命な責任を負った心持でハンドルにつかまっていることだろう。新らしい仕事でひどく気づかれしながらも、よろこびや誇りは秘かに感じているであろう。戦地からかえって来て、町の×子がそうやってバスを動かしている姿にヤアと目を瞠る青年たちの顔々も見えるようだ。だけれども、男手が再び出来たとき、今バスを運転している娘さんたちの暮しは、どんな形でそこから更に変化してゆくのであろうか。

        乱菊

 近所の住っている友達のところへ行った帰り、つれ立って市場へ買ものにまわろうとして来たら、角のトタン塀の高いところに板がうちつけてあって、そこに菊花鉢ありと書いてある。附近一帯の大地主である××では、石塀をめぐらした主家のまわりに、米やと花卉栽培とをやる家があって、赤いポストが米屋の前に立っている。そこでは、切手も売るのであった。札のかかっている横を入って菊畑へ行ってみたらば、そこの棚にのって飾られているのはどれも懸崖であった。綺麗にちがいないのだけれど、竹を添えられ、強いてもためられている花の姿は窮屈である。あたり前に咲いているのはないのかしら。そんなことを云いながら、ぶらりと椎の大木の下にある門をくぐって別の庭へ歩みこんで、私共は急にばつのわるいような顔つきを合わせた。春の頃は空の植木鉢だの培養土だのがしかし呑気に雑然ころがっていた古風な大納屋が、今見れば米俵が軋む程積みあげられた貯蔵所になっていて、そこから若い棕梠の葉を折りしいてトロッコのレールが敷かれている。台の下に四輪車のついたものが精米をやっている米屋の裏の方へつづいているレールの上に置いてある。米俵はそれで運搬されている様子である。米のことが皆の心配の種になって、来月から七分搗と云われていた時、この米屋の前を通ると夜十二時頃でも煌々と電燈の光を狭い往来に溢らせていた。モーターが唸って、小僧は真白けになっ
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