このごろの人気
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)[#地付き]〔一九四〇年十一月〕
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 四五日前のある夜十時頃、机に向っていると外でうちの名を呼ぶ男の声がした。速達だろうと思った。郵便受箱へ入れておいて下さいというつもりで高窓をあけたら、タオル寝間着の若い男のひとが立っていて、妙にひそめた声と左右に目を配った挙動とで、「一寸ここまで来て下さい」と云う。「どなたなんでしょう。」「一寸ここまで来て下さればわかりますから。」
 それはつい一つ先の角の家のひとで、その家の台所と風呂場をうかがっていた怪しい男をそこの露地へ追いこんだから、交番へ行ってくれ、というのであった。怪しい男はつかまった。これ迄は何年にもこの界隈にそういうことはなかったのだ。私はこわいと思った。
 友達のうちで、二階から二階へわたって物とりに入られていろんなものをとられた。そんなことは、そこに住んで以来はもとより附近にもなかったことだそうだ。私たちは、こわいわねえ、と云いあった。
 そしたら前後して、本郷の方の通りで、何か妙なことが起って、おまわりさんは、夜はどの道を歩くな、と住民たち、特に女に注意してくれたそうだ。
 人気がいいとか、人気がよくないとかいうことが昔から或る町や界隈について云われる。少しかたい言葉であらわされれば人心の微妙な動きが、人気のよしあしとなって云われるのであろう。その人気のうつりかたは実に早くて生物的であって又現実的であって、手の指の間にとらえ難いものだが、この頃の人気は、どこかこわいところがある。
 そんな泥棒のふえて来たことだけでなく、ある夫婦が歩いていたら警官に呼びとめられて、妻にしろそんな若い女と歩いているのはいけないと叱られたということをきいた。地方では青年団のひとたちがそういうようなことに口をはさんでいるというような話もつたえ聞いた。そんなことも、やっぱり人気の荒さと感じられて、こわい。男女づれのそのような見かたで女というものがどう扱われているかという心理に迄ふれて行ってみると、そういう男の女を見る目のなかに女にとって、こわい光がある。女がひとり歩きしにくいようなことになったら、益々社会的に働く場面のひろがっている女の不安、その家庭の不安、世間の不安は少ないものでなくなるだろう
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