からたち
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)突嗟《とっさ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「白/十」、第3水準1−88−64]莢《さいかち》
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その時分に、まだ菊人形があったのかどうか覚えていないが、狭くって急な団子坂をのぼって右へ曲るとすぐ、路の片側はずっと須藤さんの杉林であった。古い杉の樹が奥暗く茂っていて、夜は五位鷺の声が界隈の闇を劈いた。夏は、その下草の間で耳を聾するばかりガチャガチャが鳴いた。
杉林の隣りに細い家並があって、そこをぬける小路の先は、又広々とした空地であった。何でも松平さんの持地だそうであったが、こちらの方は、からりとした枯草が冬日に照らされて、梅がちらほら咲いている廃園の風情が通りすがりにも一寸そこへ入って陽の匂う草の上に坐って見たい気持をおこさせた。
杉林や空地はどれも路の右側を占めていて、左側には、団子坂よりの人力宿からはじまって、産婆のかんばんのかかった家などこまごまと通って、私たちが育った家から奥の動坂よりには、何軒も代々の植木屋があった。
うちの前も善ちゃんという男の子のいる植木屋で、入口に※[#「白/十」、第3水準1−88−64]莢《さいかち》の大木が一本あった。風のきつい日に、※[#「白/十」、第3水準1−88−64]莢の実が梢の高いところでなる音をきいたりした。竹垣が低くその下をめぐっていて、赤い細い虫の湧くおはぐろどぶがあった。うちの垣根は表も裏もからたち[#「からたち」に傍点]の生垣で、季節が来ると青い新芽がふき、白い花もついた。
裏通りは藤堂さんの森をめぐって、細い通が通っており、その道を歩けばからたち[#「からたち」に傍点]の生垣越しに、畑のずいきや莓がよく見えた。だから莓の季節には、からたち[#「からたち」に傍点]の枝を押しわけて、子供が莓盗人に這いこんだりしたが、夜になれば淋しい淋しい道で、藤堂さんの森の梟がいつもないていた。
夏目漱石の家が、泥棒に入られたのは、千駄木時代のことだったと思う。あの頃、千駄木あたりは、一体よく泥棒がいたんだろうか。藤堂さんの森をめぐるくねくねした小路は、泥棒小路と呼ばれていた。当時一仕事した連中は、何かの便利
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