わめて早く立って行った、男は力のぬけた様にうつむいた。女はまだそのうつむいた瞳をおって行った。お龍はかちほこった様に眉をかるく動かしてダラリと下げて居る男の両手を自分のひやっこい雌へびの肌ざわりの様な手の中に入れた。男の体は急にふるえ出した。さわぎ立てる血が体中を走りまわるのや髪の毛までまっかになった様な姿を女はかお色一つかえず髪一本ゆるがせないで見る事が出来た。男はすじがぬけた様に手をもたれたまんまもとの石段にくずおれてしまった。
「御はなしなさって――」
 かすかなとぎれとぎれの男の声に耳もかさないで御龍はますます手をかたくにぎりしめた。男の目から涙のこぼれ出て居るのを見つけて、
「蛇に見こまれたと思ってればいい……」
 さえた低い声で女はささやいた。
「どうぞ――御なぶりなさらないで……」
 男は前よりも一層力のない声で□[#「□」に「(一字不明)」の注記]った。
「はなさない、どんな事があっても、二人ともが骨ばっかりになった時でも――」
 お龍は斯う云ったまんま動こうとも手をはなそうともしなかった。
 はげしく動く感情、涙をこらえるために情ないほどかたくしまった頬の筋、自分を恐れて手をもぎはなすほどの力さえない男の気持を、女はかがみの中にうつす様に自分の心にうつし見てまっしろに光る倉の扉にほほ笑みをなげた。
 赤坊があきのきたおもちゃをポンとほうり出す調子にお龍は自分の手から男の手をはなした。白い二本の手は又先の様にだらりと両わきに下った、男はうつむいた目を上げてチラッと女を見あげて又食入った様に下に向いた目を動かさなかった。お龍はジッとうす闇の中にうく男のかおを見た。白い細い指が顔をおさえて指と指とのすき間にかすかな悲しみの音のもれてくるのを見て女はするりとまぼろしの消える様に行ってしまった。男は荷物をもちあつかう様に石段の上に自分の体をなげて長い間ほんとうに長い間今のは夢ではあるまいか? いたずらをされたんじゃああるまいか? どうしてあんな気持になって呉れただろう? と思って、心も体もとけて行きそうなうれしさと限りない恐れとかなしみとよろこびにふるえて居た。
 それからうす明りの倉前に立つ二人の若い姿を見るものは着物をしまいに来た女中の一人二人ではなかった。傘の下に二つのかおが並んだ絵の倉の扉に爪で書いてあるのもお龍は知って居た。日毎に男の瞳はぬれてうる
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