限に続いた闇の中に消え入って仕舞った後の沈黙は、激情の赴くがままに走った後の眠りを欲するまでに疲労した心の奥までしみ透って、互に目を見合わせて寄り合わずには居られない程の陰鬱と凄惨な気分が漲って居た。
若者等の口からは太い吐息がもれた。
そして涙のにじむ様な気持になって影の様に去って仕舞った。
若者達の去ったのを知って上の男は始めて自分のそこにそうやって立って居る事を気づいた。
気が抜けて崩れる様に座についた二人はだまったまま酒をつぎ合って喉の渇きの癒えるまで呷りつづけた。
暖味が快く体中に廻って、始めて、
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「いやどうもひどい事だった。
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と主人が云った時にはお関も漸《ようよ》う気が落ついておそれながら下の様子を見に降りると、取りちらした中に恭とお久美さんがぼんやりたって居るのを見つけた。
お関はカーッとなった。
いきなり噛みつく様な声を出して云った。
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「お久美、
一体どうしたって云うのだい、それは。
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何心なく立って居たお久美さんは喫驚《びっくり》してお関を見ると
始めてその気持が分って、少し狼狽しながら、
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「彼の人達が斯んなにして行ったのよ。
私今来たばっかりで何にもしない。
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と低い声で云ったけれ共お関は益々いら立って、
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「さ、恭、
お前あっちへお出で、此処はいいから。
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と命じてから、
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「お久美、まあお座り。
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とお久美さんを自分の前へ引き据えた。
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「お前は此処で何をして居たんだい、え、お久美、
お云い。
すっかり白状しておしまい。
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お関の口元は自分の家を滅茶滅茶にして行った若者に対しての憤怒とお久美さんに対しての嫉妬でブルブルと震えて居た。
元よりお関だってお久美さんが只偶然恭の居る所へ来合わせて何の気なしに居たのだ位は分らないではなかったけれ共、若い者同志だ、何だか分ったもんじゃあないと云う気持と、恐怖と憎しみで乱されて居たお関は疑わずには居られなかった。
お久美さんの顔を見て何か云って泣かせてやらなければ気がすまなかった。
そしてお関は「白状しろ、白状しろ。え、何をして居たんだよ」とお久美さんを攻めたてた。
お関の不法な怒りに会って只泣きながら震えて居たお久美さんはあまり幾度も幾度も攻めつけられるので、
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「私、私何にも知らないのに……
あんまりだわ。
恭に聞いて御覧なさると好いわ。
何ぼ何だって、私まさか。
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と云うと、お関は益々声を荒々しくして、
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「何があんまりだえ。
よく口答えをおしだね。
さ、何とでもお云い。
ききますよ。
人が不憫だと思って何でも手をひかえて居ると、増長して何でも勝手にする気になって居る。
もう今夜と云う今夜はきかないよ。
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と云いたてた。
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「一体さっきだってお前が気さえ利いて居ればすぐ皆を好い様に云ってなだめるべきだのに、あんなに成るまで黙って見て居て、いざとなると、自分だけさっさと何処へか行って仕舞って……
お前みたいな恩知らずはないよ。
私みたいな者が何故撲り殺されなかったろうと口惜しかろうね。
だが、そう上手くは行かないのが世の中なのさ。
「もう此那家に居ないが好いよ。
どこでもお前のすきな所へ行くが好いじゃあないかい。
お前の大切なお※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]さんの所もあるしね。
私はもうそうやってふてて口も利かない様な人と一緒には居られないんだからね。
恐ろしくて。
「今時の若い者なんて、何が何だか分りゃあしない。
ね、お久美、
お前云わないで好いのかえ。
後で後悔おしでないよ。
ほんとに図々しいにも程が有る。
どうしても出て行ってもらった方がいいよ。
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逃げて帰った娘達の話に驚いた者達は相談ずくで七八人集まって山田の家へ来て、お久美が一人ぽつねんと叱られて居るのに少なからず驚かされた。
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「何ーんの事だ。
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と云う気が仕たけれ共、する事もないので来た者は二人の仲裁に入った。
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「何かお久美ちゃんに落度が有ったら、俺がだまっては居ないさ。
ね、お関さん、どうしたんだ一体。
明けっぱなしに云ってお呉れな。
叱る所はみっちり私が叱ってやるから。
お久美ちゃんも何だ。
お関さんに一から十まで面倒見てもらってるんだから決して我を張る様な事が有っちゃあならないのさ。
ね、まあ訳を話しておくれな、お関さん。
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お関は自分でも何がほんとに叱る事なのかはっきりは分らなかったけれ共、口の中でゴトゴト何か云ったあとで、
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「皆私が及ばないからなんですよ。
こんな小娘にまで踏みつけられるかと思うと、
この年をして生きて居る甲斐がなくなりますよ。
ほんとに。
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と泣き出した。
来た者は皆お関の気心を知って居るので、お関を叱る様なお久美さんを叱る様な至極要領を得ない事をくどくどと繰返して到々仲なおりをさせてしまった。
その騒ぎの最中二階では浮腰になって居る清川をまあまあと云って山田の主人が独りで機嫌よく酔って居た。
十
※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は翌日其の事を人伝に聞いた。
其の場の様子等を種々想像しながらお久美さんの身に恙がなかった事を喜んだけれ共、自分が風邪を引いて床に居たので会う事も出来ずに四五日を送った。
村の者は、口先でこそ会えばお関に、
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「飛んでもない事でした。
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位は義理から云ったけれ共、心の中では十人が十人、日頃からのお関や主人に対する鬱憤を晴して呉れた事を快く思って居た。
其の夜若者共に加えた無礼な仕打ち等が段々知れて来ると、益々山田夫婦には面白く無い噂ばかり耳に入る様に成ったので、急に思い立ってお関は兼てから主人に話してある養子の話を進行させて迎えにY市へ行く事を云い出した。
主人も此頃は嫌な事ずくめで、自分の立てて居る目算がバタバタとわきから崩れる有様なので、当分気を抜くに其れも好かろうと云うので、僅かの着換えを持って旅立つ事に成った。
明日立つと云う晩に成ってからお関は急にお久美さんを独りで留守させて置く事を不安がり始めた。
人家の稀れな所にポツネンと若い娘一人置くと云う事より、お関にとっては、自分の居ない幾日かを恭吉と小女ばかりの中に置くと云う事は必ず何事かを引き起さずにはすまない事だと感じられた。
留守の間も洗濯を頼んで来ないものではないから恭を他所へやる事も出来ない。
お関は独りで種々思い惑った末、久し振りで暇が出来たからと云って町に居る宣教師の所へ手伝いにやるに限ると思いついた。
お関はお久美さんを呼んで、
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「今度ね、Y市の人で家へ養子が定まったからその人を迎えに明日の朝立とうと思うんだがね、
若い者ばっかり家に残してくのも気掛りだから四五日の間お前町の辻さんの所へ手伝に行ってお出で。
あすこでもこの間赤ちゃんが生れて手無足で居るんだから丁度好いやね。
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と是も非もなく云い渡した。
お久美さんは総ての事のあんまり突然なのに喫驚しながら、殆ど無意識に、
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「ええ。
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と返事をして、自分達の部屋に来てから始めて落着いた気持になって、今度来ると云う養子の事を考えた。
養子が来る。
お久美さんは直覚的に或る事を悟った。
にわかに世の中が明るく成った様な、自分の体が延びた様な歓びがお久美さんの心を領して、薄暗い灯の下で、白い布に包まれた自分の成熟した体を、喩え様の無い愛しみを以て眺めて居た。
どんな人だろう。
目の前には今まで見た若者の顔のすべてが現れ出て、朧気ながら髪の厚い輝やかしい面が微笑を湛えて見えたり隠れたりした。
其の晩、お久美さんは今まで有った事の無い幼児の様に安らかな明けの日の楽しい眠りに陥ちた。
九時過の汽車に山田夫婦を送り出してから、お久美さんは、珍らしく※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子を訪ねた。
その前の日に漸う床を離れた許りで、まだ頭の奥が重い様な気持で、何事も手に就かないで居た※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は意外なお久美さんの声に驚きもし喜びもして、年に似合わしい浴衣を軽く着て、髪等もまとまりよく結ったふだんとはまるで人の違う様な姿を楽しそうな眼差しでながめやった。
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「今日はどうしたの、
どうして此那に早く来られたの。
「今日?
まあね、そりゃあ好い事が有るのよ。
伯母さん達がY市へ行って留守になったの。
「そう、まあ、そいで、
いつ立ったの、昨日。
「いいえ、今もう一寸さっきなの。
私ね、町の辻さんの所へ行かなきゃあならないんだけれ共、行きがけに一寸およりしたの。
思い掛けない事が有るわねえ。
「ほんとにねえ
いつ頃帰るの。いずれあすこまで行ったんだから四五日か一週間位は掛るんでしょう。
「ええ、大抵四五日だって。
「じゃあ毎日家へ来て居らっしゃい。
「駄目よ。
辻さんの所へ行って居なけりゃあならないから。
「どうして。
ずうっと行ってるの。
「ええ帰って来るまで。
「まあ、そう。
そいじゃあ仕様がない。
ああ、そうそう、
この間木曜に大騒ぎだったんだってねえ。
貴女何ともなかったの。
心配したんですけどねえ、私も丁度工合が悪かったもんで行かれもしなかったけれど。
「なんでもなかったのよ、
彼那事。
伯父さん達があんまりな事を仕たんだから、あたり前だわ、あの位されるのは。
「そんならよかったけれど、
あの一寸前の日に貴女の所へ行ったんだけれ共、彼の人に追い帰されて仕舞ったのよ、
貴女が町へ行って留守だって。
「あらまあ、一体いつなの、それは。
この頃、私、町へなんかちっとも行かないのに、随分ね。
会わせない積りでそんな出鱈目を云ったのね。
「きっとそうなのよ。
私もそうだと思ったから何んでもない様な顔をして、
『そうですか』
ってさっさと帰って来た。
私がきっと捜したり何かするだろうと思って居るんですからね。
「ええ、そりゃあそうだわ。
困らして見たくて仕様がないんですもんね。
「だから当をはずさせて遠くの方から見て居るんです。自分の思う様に困ったりがっかりして呉れないと彼の人はもうもう世は末だと思うんですよ。
「ほんとにね。
でも考えて見れば、彼れもやっぱり気違いに違いないわね。
私どうもそうらしい。
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二人は他意の無い気持に成って笑った。
お久美さんの歯はいつもの通り堅そうで美くしかった。
けれ共今まで一度も見た事の無い表情がのびやかな眉の間にも輝いた頬にも漂うて居るのを見付けた※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は不思議さに眼を見開いた。
歓楽の音ずれを待ちあぐねて居る様な緊張と物倦い倦怠とが混乱したなまめかしさが如何にも若々しい弾力の有る皮膚を流れて、何物かに心を領されて居る快い放心が折々、折々其の眼をあて途も無い様に見据えさせたり、夢の様な微笑を唇に浮べさせたりした。
※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は明かにお久美さんの霊を宇頂天にさせて居る何かが有るのを知ると共に、常とまるで異って感じの鋭くはでやかに成って居る顔を
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