面白く見守って居た。
 いつも此の位晴れ晴れと美くしくあって欲しいとさえ思われた。
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「ほんとにまあ、貴女も辛いわねえ、
 あんな人の傍に居るんだから。
 何か好い事が無いでしょうかねえ。
「ええ、ほんとよ。
 伯母さんさえ人並で居て呉れたらと思う事よ。
 伯父さんは変だけれ共彼那じゃあないもの。
 でも此頃はほんとに好いわ、私。
[#ここで字下げ終わり]
 最後の一句をお久美さんは何とも云えない細く優しい声で心から云って、こみあげて来る感情を押えるに力の足りない様に膝をムズムズ動かしたり下を向いて後れ毛を丁寧に耳のわきに掻き上げたりした。
 ※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は何だか心に陰が差して来る様な気持になって、
[#ここから1字下げ]
「何がそんなに好いの、此の頃。
 私にも半分位分けても好いでしょう。
 貴女みたいに嬉しそうな事はちっとも私には来ないんだから。
[#ここで字下げ終わり]
と云って淋しく微笑んだ。
[#ここから1字下げ]
「まあ。
 何でもないのよ。
 第一私そんなに嬉しがってやしないわ。
「そう。
 それはそうと彼の人達は何のために今頃行ったの。
 暑いのに大変でしょうねえ。
「養子に成る人を迎えに行ったのよ。
「え?
 養子。
 まあ養子なんかするの、彼那家だのに。
「まあ、可哀そうに、
 いくらあんな家だって貧亡[#「亡」に「(ママ)」の注記]ながら後取りは入用《い》るわ。
「へえ。
 私始めて聞いた。一体いつから出て居たの、其那話。
「いつからも何も有りはしないわ、
 昨日の晩始めて私聞いたんですもの。
「そいで、今日もう迎に行くの。
 まあ何て突拍子もない家なんでしょう。
 養子なんて云う大切な事をそうじきにさっさと片づけて仕舞うなんてね。
 一体どんな人なの。
「私知らないわ。
「年も名も知らないの。
「ええ。
 私に聞かせないんですもの。
「だって、まあ、あんまりじゃあ有りませんか。
 まあ、それにしても変ですねえ、
 そうじきに養子に丁度好い人が見付かるなんて。
 第一、先の人は彼の家がどんな家でどんな人が集まって居るんだか知って居るんでしょうか。
 知って居ちゃあ来る者がなさそうだけれど。
「ほんとにね。
 だけれ共、矢っ張り縁が有るんでしょう。
[#ここで字下げ終わり]
 お久美さんは何を思ったのかポーッと顔を赤くして羞《はにか》む様に微笑するのを見て※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は何も彼もすっかり分った様な気がして薄笑いをしながら頭を左右に揺り動かして、苦労をしながらも単純な女らしい夢心地に支配されて居るお久美さんの可愛らしい霊を想って居た。
 来るべき歓びを期待して居る成熟した体の隅々に普く行き渡って居る柔和と謙譲と恥らいを見出すと※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は殆ど痛ましい様な気持になって仕舞った。
 未知の若者を自分の王者とも君主とも想像して居るお久美さんは此の力強い夏の日をどれ位幸福に感じて浴して居るのだか知れない。
 幾日かの後、自分の前に展らかれる永劫の花園の微な薫香を吹き渡る風に感じて居るのに違いない。
 年若い娘の中に在って、自己の征服者を待ち焦れて居る彼女等の願望の強さ、強者の前に身も心も捧げ様とする若い霊の焔に驚かされもし悲しまされても居る※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は、不幸に不幸の続いた十九年の年月を暗く送ったお久美さんが不意に現われ様として居る若者に対して自分の幸福な世界の開拓者で有ると思うのは決して無理では無い。
 其れが事実と成って開展され得る事なら※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は共に微笑もし夢見る様な歓びを分つ事も出来様。
 けれ共決してそうは成らない事とは※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子に明かに分って居た。
 お関の病的な心は、若しお久美さんが当然その位置に有ってもその頭に新婦の環飾りをのせさせるものではない。
 輝いたお久美さんの体、押え切れない力で差し上って来るおだやかな微笑を※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は、寒い様に悲しい気持で見て居た。
 いずれは見なければならない悲しみの極みまで無心で居るお久美さんを歩ませて行くのは忍び難い事で有ったけれ共、又今切角お久美さんの心の前に美くしく現われて居る蜃気楼を自分の一言で打ち崩す事も出来なかった。
 若しかするとと云う偶然を頼んで※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は到々一言もお久美さんの心に立ち入った事を云わずに仕舞った。
 年若い娘の羞恥から自分のときめいて居る心を、小躍りして歌って居る思いを「何でもない」静けさで被うて居ようと自分の前に努力《つと》めて居るいじらしい様子を見ると、余り可哀そうな之からの事を思うて※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は口も利けない様であった。
 自分はあまりひどくお久美さんを悲しませない様に見守って行く丈なのだ。
 歓びには極が有る。喜びに躍る心は自分で鎮められる時は遠からず来るものである。
 けれ共悲しみの深さは量り知れない。
 心の底の底まで喰い入って行く悲しみの中に、静かに手厚く慰める者の有る事は決して無駄には成らないと※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は思って居た。
 歓ぶ者の前に其の歓ぶ者を悲しむ者が居るのは痛ましい事だ。
 ※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は二つ年上の「娘」を種々な思いに耽りながら眺めて居た。

        十一

 辻へ行ってからのお久美さんは実に優しい可愛い娘で有った。
 絶えず輝いて居る顔、静かながら情の籠った声は、辻の全家族に好い感じを起させた。
 主人は神の御恵に浴し得た霊の輝きだとか何とか云って居たけれ共、主婦や老人は延々としたお久美さんの体を頼もしそうに眺めながら、
[#ここから1字下げ]
「好い娘さんになりましたねえ。
 年頃と云うものは争われないもんですねえ、先の時分は痩せた様な体をして居なすったっけが、声でも何でもまるで違う。
[#ここで字下げ終わり]
と笑いながら云って居た。
 赤い着物に包まった赤坊をお久美さんは宝物の様な気持で抱く事が出来た。
 世界中の事と人とが皆自分の為に動いて居る様で、哀れな者に恵まずには居られなかった。
 人の罪を庇わずには居られなかった。
 今まで無心に繰し[#「繰し」に「(ママ)」の注記]て居た祈祷も今は明かに自分の慰めと成り、神の名を一度称える毎に心が高まって行くのを感じて居た。
 朝夕の祈りに敬虔な気持で連り、静かな夜の最中、冴え渡った月の明るい時などには云い知れぬ霊感に打たれて、髪を震わせながら涙をこぼす事さえ有った。
 お久美さんの身内には幸福が血行と共に高鳴りして居るので有った。
 一日一時を非常に長く、お久美さんは四五日の日を送った。
 六日目の日午後から三人で帰ると云う知らせを受けて、お久美さんは体中が堅く成った様に感じながら村の家へ帰った。
 黙ってせっせとそう片付け栄えもしない家の中を掃除して、珍らしく掛花に昼顔の花を插して見たり、あやしげな山水の幅を掛けたりして漸う家らしくなった中に、小ざっぱりと身じまいをして薄く白粉さえ付けたお久美さんは喜びと恐怖の混じった表情を面に浮べて立ったり座ったり落付きなく動いて居た。
 畑地を隔てた彼方に白々と続いて居る町からの往還をながめやったり小女のせっせと土間を掃いて居る傍に訳もなく立って見たり、遠い向うの木の間から三台の人力が小さくポコポコと立つ砂煙りの中に走って来るのを見つけるまでの間は、お久美さんにとっては居ても立っても居られない苦しい時の歩みであった。
 三つのチョコチョコと動いて来る者を見つけると、お久美さんは無意識に顔を火照らして、掛鏡で一寸顔をのぞくと、大いそぎで裏へ出て仕舞った。
 豚の騒がしい鳴声の聞える小路を行ったり来たり仕て居たけれ共それでもまだ好い隠れ場所では無い様な気になって、まだ果の青い葡萄畑へ入って行った。
 徐々《そろそろ》陰って来た日影は茂った大柄な葉に遮られて涼しい薄暗さを四辺《あたり》一杯に漂わせて、うねうねと曲りくねった列に生えて居る其等の幹と支柱とを隙して見る、向うの斜面の草地、すぐそばの菜園等が皆目新らしくお久美さんを迎えた。
 番小屋に腰を下して立て並べた膝に支えた両手の間に顔を挾んで安らかな形に落付いたお久美さんは眼を細めて、葉擦れの音と潤いのある土の香りに胸から飛び出しそうな心臓の鼓動を鎮め様と努めた。
 けれ共総ては無駄で有った。
 漸う息苦しくない呼吸を始めた時、いきなり耳元で途轍もなく大きな声が、
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「旦那、どっちから入るんですえ。
 向うからですかい。
[#ここで字下げ終わり]
と怒鳴った事によってすっかり乱されて仕舞った。
 山田の主人が、
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「うん向うから。
[#ここで字下げ終わり]
と云う声を夢の様に聞きながらお久美さんは両手をしっかり握り合わせて化石した様に夕闇の葉陰から音もなく這い出る中に立って居た。
 間もなく主屋に人声がざわめいて、
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「お久美は一体どこへ行ったんだい。
 お前捜してお出で。
[#ここで字下げ終わり]
とお関が云って居るのも手に取る様に聞えて居たけれ共お久美さんは動こうとも仕なかった。
 パタパタと草履を叩きつける様にして小女はズーッと葡萄畑の方へ来て、入るのを怖れる様に入口の木戸を半開きにして、
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「お久美さん居ないんですか。
 皆さんがお帰りですよ。
[#ここで字下げ終わり]
と大声を出した。
 喉が渇いた様な気のして居たお久美さんはすぐ声を出せなかった。
 暫く黙って返事を待って居た小女がもう一度、
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「お久美さん居らっしゃらないんですか。
[#ここで字下げ終わり]
と云った時漸々、
[#ここから1字下げ]
「なあに。
[#ここで字下げ終わり]
と云って出て来たお久美さんの顔は小女が気味を悪くしたほど真面目に凝り固まって居た。
 非常に厳な気持でお久美さんが主屋へ行った時は山田の主人と新らしく来た人とが向い合って座って居るわきでお関が突き衿を仕い仕い大きく団扇の風を送って居る所だった。
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「お帰んなさいまし。
[#ここで字下げ終わり]
とお辞儀をすると、山田の主人は機嫌よく若者の方を見ながら、
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「はい只今。
 さあ、この人が重三さんと云ってな、今日から家の若旦那だよハハハハハハ。
[#ここで字下げ終わり]
と酒に酔った様な顔をして云った。
 お久美さんは又黙って頭を下げてお関の傍に座って下を向いたなり団扇を動かして居た。
 前よりもずうっと気が落付いて来て、澄んだ目で遠慮勝ちながら確かに若者の顔を見た時、お久美さんは淡い失望に迫られた。
 其の顔は如何にも下等に逞しくて、出張った頬の骨と小さく鈍く動いて居る眼[#「眼」に「(ママ)」の注記]い目とは、厚く垂れ下った様な唇と共に、どんな者が見たって利口だとは思えない表情を作って居る。
 お久美さんは丈の足りない様な紗の羽織から棒の様に糸織の袴の膝に突出て居る二本の真黒な腕と気味の悪い程大きい喉仏をチラリと見て、淋しそうな眼を自分の膝に伏せて仕舞った。
 お関夫婦は如何にも嬉しそうに下にも置かず待遇して有るっ丈の食物を持ち出したり、他愛もない事を云って笑ったりして居た。
 お久美さんは夢の醒めた様に飽気無い気がして、何処かの小作男の様な若者を何時しか湧き上った軽い侮蔑を以て見下して居た。
 始めて恭吉の容貌と挙動が人に勝れて居るのに気付くと共に此那半獣の様な男が自分の生涯の道連れであると云うのは余りみじめな、※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]
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