子に対しても恥かしい事だと云う思いがどうしてもまぎらされなかった。
 果物などを食べながら皆がさも面白そうに下らない事を云って笑い興じて居る間に、お久美さんは独りで土間の前に立って、身の置き所の無い様な失望と激しい情無さで、さっきまでの喜びを跡片もなく洗い去る程の涙をポロポロとこぼして居た。
 生きて居ても仕様の無い様な淋しさが心一杯に拡がって来るので有った。
 翌日は午前に、重三はお関に連れられて近所廻りに行った。
 来た時の通りな装りをして足の下に隠れて仕舞う様な籐表ての駒下駄を履いて固く成ってついて行く様子を見送って、井戸端に居た恭吉は、
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「へ、好い若旦那だ。
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と云って嘲笑った。
 小女とお久美さんは其れを小耳に挾んで井戸端の方へ振向きながら、
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「聞えると大事だよ。
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と云って笑ったけれ共、お久美さんには、恭が濡れた手先をズーッとのばして白いシャツの腕で額の汗を拭いた時の様子が目に残って居た。
 一番先に道順でも有るのでお関は※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の家を訪ねた。
 女中は、いつもになく改まって丸帯に帷子《かたびら》を着て、
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「御隠居様はお居でですか。
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と云ったお関にも驚いたけれ共尚々その後に控えて居る重三の様子にすっかり面喰った。
 其の様子を聞いた祖母も※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子もちゃんとした身じまいをしてわざわざ滅多に人の行かない客間を明けて通した。
 ※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は大方其の養子とか云うのだろうとは思ったけれ共黙って出て行って見ると、将してそうで、得意の鼻を高々とお関は二人に養子を紹介した。
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「重三と申しましてね。取って二十六になりますんですよ。
 Y市の士族の二番目なんでございますがね、余り話が急にまとまりましたんで、まだ何処様へもお話し申して置きませんでしたから、さぞ喫驚遊ばしたでございましょうねえ。
 行き届きませんが、どうぞ何分よろしく御願い申します。
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 祖母は流石年を取って居るだけあって度魂を抜かれながらも、
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「まあそうですか。
 そりゃあ何より結構な。
 お年頃もよし、お体もお健者そうで、何よりですわ。
 まあまあ、其れで御主人も御安心でしょう。
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と云った。
 ※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は、二人がしきりに喋って居る間中静かに座ったままで其の重三と云う二十六の男を観て居た。
 殆ど滑稽に感じた程其の男の態度は取りたての熊的で有った。
 まるで借り着をした様な着物の着振りから、上の空の様に座って居る座布団付の悪さから、どうしても昨日まで鍬を握って居た男とほか思えない筋肉の異常な発達を見ると始めて、軽い安心仕た様な気持に成った。
 之ならお久美さんも自分に無関係で有った事を喜ぶに違いない。
 ※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は心の中で却って重三の愚直らしい顔つきから物腰しをよろこんだ。
 黒々と日に焼けた角張った顔、重々しく太った鼻、頭の地にぴったり貼り付いた様に生えて居る細い縮れて疎《まばら》な髪、其等は皆※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子に不吉な連想を起させた。
 どうしてお関夫婦も此那見掛けからして利口でないに定まった様な男を養子にする積りに成ったのだろう。物好きだと思って何の気なしお関と重三の顔を見くらべて居た※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は、二人が余り以て反っ歯なのに驚ろかされた。
 猿に近い程にお関は歯がズーッと出て生えて居る。
 重三はお関程ひどくはない。
 けれ共唇が合い切れない様に僅かの隙を作って外に向いた歯を被うて居る所は、どう見ても似て居ないとは云えない。
 ※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は好奇心に動かされて尚幾度も幾度も見なおしたけれ共、一度毎にその事は明かになって来て、気の故《せい》か頸の辺の皮膚の荒さまでそっくりの様に思えて来た。
 忌わしい疑問が忽ち※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の胸一杯に拡がった。
 十五分程して他所へも行かなければならないと云って二人が帰るまで、※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は怖ろしい気持に成って、二つの顔を見くらべて居た。
 帰って仕舞ってからも※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の家は一日中お関の養子の噂で持ち切って居た。
 皆その突然な仕打ちを笑ったり、木偶の様に口一つ利かないで行った重三の気の利かなさを彼此れ云った丈で、その※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子を喫驚させた口元については気のついた者もないらしかった。
 ※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は他家の事だと思って黙って居た。

        十二

 山田で養子をした事は此の狭い村での一事件で有った。何の話も無くて居た所へ突然お関が重三を連れて、
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「今度之が家の後を取る事に成りましたから、何分とも宜敷く。
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と云って廻った事は皆の反感を買って、数える様な家並みでどうせ後から知れる様な事々は相談する様な体裁で吹聴仕合って居る者達は、
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「余り踏み付けた仕打ちじゃあ有りませんか。
 お前達なんかはどうでも好いぞと云う様な風を見せられちゃ、何ぼ私共みたいな土百姓でも虫が黙って居ませんや。
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などと云い合って、当分は何処でもその噂で持ち切りの有様だった。
 ※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の家へ来る者共でも、
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「山田さんでは妙な事ばっかりなさいますんですね。
 今度の御養子の事だって何にも伺って居ませんでしたのにいきなり先日その御養子さんとかを御連れなすって御披露なんですものねえ、御隠居様。
 それに賤しい事を申す様ですけれ共、彼あ云う御縁組をなされば何は無くても知り合いを集めて御酒の一杯も御出しなさるべきですのにね。
 そんな事もまるで無かった様でございますよ。
 御夫婦とも左様《そう》申しちゃ何ですけれど一寸変って被居《いら》っしゃいますから無理もありませんでしょうが。
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等と云う者が少くなかった。
 人が勝手に好きでする事を矢鱈に干渉して自分の徳に成るでもない事を一生懸命に云って居るのを※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は可笑しくも思ったけれ共実際其の唐突な事の成り行きと彼《あ》の妙な重三の事を思うと変に考えずには居られない様でもあった。
 単調な明暮に倦いて居る者は好い事にして騒がしく彼此と噂して居た。
 山田の家も此の重三が入ってから種々混み入った様子に成って来た。
 自分がフト思い付いた事が、自分の予期以上にスラスラと運んで行って、何と云っても憎かろう筈の無い実の子を大びらに家に入れる事の出来たお関はそりゃあ満足して居たには違いなかったけれ共、一方恭吉が自分に向ける意味有り気な眼を気に掛けずには居られなかった。
 何か不満が有るらしく、自分が何か云っても太《ふ》てて鼻歌で行って仕舞ったり、わざと聞える様に重三の悪口を云ったりする様子がお関には不安で有った。
 若しかすると重三のことをすっかり知って居るのでは無[#「無」に「(ママ)」の注記]るまいかと云う怖れ。
 自分が恭に向って仕向けた種々の事を自分から洩す魂胆をして居るのでは有るまいかと云う不気味さ。
 非常に多くの弱味を持って居るお関は、恭がジーッと自分を見守る目から逃れる気味に成って居た。
 今まで何事も控目に仕て居た恭吉は主人が居ない様な時には昼日中《ひるひなか》あたり介わずにお関に小使をねだったり何と云っても仕事を仕ずにゴロンとなって講談本か何かを読み耽ったりする様に我儘になり出した。
 お関は如何うして好い者か恭に就いてはほとほと困って居た。
 只解雇しても好いには好いかも知れないけれど、それを不服な男が何といって此の家を掻き廻す様な事を云わない者でもないし、其の口止めとして恭の満足する丈の金をやる事もお関の今の有様では出来なかった。
 相談する者も無くてお関は独りで思い惑いながら爆裂弾を抱えて火の傍に居る様な思いをして居た。
 丁度お久美さんを使にやり、主人と重三は町へ出て行った留守で有った。
 お関は恭と二人限り此の家に居る事を少くなからず不安に思いながら主屋で洗濯物を帳面に付けて居ると、洗場の方からブラリとやって来た恭は暫く黙って立って居たが、やがて縁側に腰をかけると何となし意味の有りそうな笑いを浮べながら、
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「ねえお内儀《かみ》さん。
 一体彼の重三さんてえのはどうした人なんです。
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と云い出した。
 お関は努めてせわしそうに帳面から目を放さずに、
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「重三かえ、
 どうした人ってお前家の養子だろうじゃあ無いか。
 何か彼れがしたかい。
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と非常な不安を以て云った。
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「いいえ何も仕た訳じゃあ有りませんがね、
 恐ろしくおのろですぜ。
 よく彼那のを養子になんか仕なさいましたね。
 まるで三春の馬車屋っても有りゃしない。
「何だね、そんな毒口を叩いて。
 彼れだって主人格な男なんだよ、お前から見れば。
 そんなにつけつけ云ってお呉れでないよ。
「有難い御主人さね、へっ。
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 恭は地面に叩きつける様に唾を吐いた。
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「まあお前、今日はどうかして居るね。
「もうとっくに如何うか仕て居ますよ、
 御陰様で。
 ねえ、お内儀さん、
 彼の重三って人を貴女は後とりに定めたんですか。
「そうさね、
 定めずに連れて来る者は居ないじゃないか。
「へえ、そうですか。
 あんな薄馬鹿にゆずるんですか。
 そいじゃあ一体私はどうなるんです。
 このまんま御払い箱はひどすぎますぜ。
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 お関は急に今までの恭の様子がすっかり飲み込めた。
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「何だね、そいじゃあお前は此の家を望んで居たんだね。
「あたり前ですよ。
「そんな事って有りゃあ仕ない。
 そりゃあ余りだよ。
 第一そんな事が有っちゃあ御先祖にすまないじゃあないか。
「そいじゃあ何故貴女彼那事を仕たんですえ。
 好きな時には勝手に慰んで居ようが、邪魔に成ったら早速お払い箱か。
 そいじゃあすみますまいよ。
 私もこんな事こそ仕て居るが男一匹です。だまって、はいそうですかと云えると思ってなさるんですかね。
 年よりゃあ此れでも苦労人ですよ。
 そんなお坊っちゃんじゃあ有りませんや。
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 お関は真青な顔をして下を向いて黙って居たが、いきなり頭を上げると噛み付く様に鋭い声で、
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「お前、人を強請《ゆす》る気だね。
 若しそんな事をすりゃあ、只じゃあ置かないよ。人を馬鹿にして。女だと思って馬鹿にするんだろうが、いくら女だって霊いが有るよ。
 主人は主人さ、人面白くもない。
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と傍に有った物尺を握って神経的に口元をビクビクと震わせた。
 恭は皮肉に笑いながら、
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「お内儀さん、
 一寸の虫にも五分の魂ってね。
 そう踏みつけてもらいますまい。
 貴女の蒔きなすった種は貴女が刈りなさるのさ。
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と云ってニヤニヤしながら又洗場の方へ行って仕舞った。
 恭は愉快で有った。
 重い鏝の火加減を見ながら口笛を吹いたり唄を唄ったりし
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