てお関の醜い間誤付いた様子を思い出して居た。
 恭吉は元よりこんな貧亡[#「亡」に「(ママ)」の注記]な有っても無くっても同じ様な家を欲しい等とは夢にも思っては居なかった。
 やると云われても此方から逃げたい様であったけれ共、重三の来た事を好い機会に今まで一杯にたまって居たお関に対しての不快な胸の悪くなる様な憎しみを爆発させる材料に使って居るまでの事で有った。
 恭は、自分の打つ芝居にお関が巧く乗って来て、講談本で読んだ通りの啖呵を切ると、丁度書いてあった通りの様子に出て来るのが面白かった。
 シャツに鏝をかけながら、
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「あれでもう少し云ってやって、
 『さあそんなに恨みなら斬るなり突くなりしておくれ』
 とぶっつかって来ると面白いな。
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とさえ思って居た。
 お関は恭の心を知る事は出来なかった。
 真個《ほんと》に自分が家をもらう積りに成って居た所へ重三が出て来て目算をがらりと崩して仕舞ったのを恨んで居ると外思えなかったので、非常な不安が湧き立って、恭を巧く納得させるか自分か重三が身を引くより仕様がないとまで思った。
 只一つ自分の弱味に付け込む男の勢力の強い事をお関は怖れずには居られなかった。
 今にきっと何か起る。
 お関は重三と自分の生命にさえ不安を感じて冷やかな刃がぴったり差しつけられて居る様に感じた。

        十三

 お関は一かどでは無い苦労を仕ながら重三に段々西洋洗濯を覚え込ませ様とした。
 彼那恭の傍へ置くのは気味が悪くも有ったけれ共、又他所へでも頼めば其れを根にも持とうかと云うので臆病に成ったお関は、子供に云う様に、
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「恭は長くも居る者だしよく飲み込んでも居るしするから、よくお前云う事を聞いて覚えてお呉れ。
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と云って重三に洗い方から習わせた。
 重三は半分其の仕事を馬鹿にして居たし、呼吸の大切な節々を中々腹に入れないので、夕食の後主屋で皆が集まって居る時などわざと恭はお関に、
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「ねえお内儀さん、
 私はこの大坊ちゃんを持て余して居ますよ。
 さっき覚えるともう今皆どっかへすっぽかして来るんですからね。
 やり切れたもんじゃあない。
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等と云って嘲笑っても赤い顔をするのはお関とお久美さん丈で当人は一向何処を風が吹くかと云う様にして一緒にニヤニヤ顎を撫でながら笑って居た。
 しまりの無い口元や始終眠って居る様な目を見るとお久美さんの心は暗く成らずには居られなかった。
 何を云われても感じの無い様な男を捕えて恭がツケツケと軽口に悪口を云うのを辛く聞きながら、一日淋しそうにコトコトと働いて居るお久美さんには誰も気を付けなかった程、重三は家内の者の注意を一身に集めて、何ぞと云っては小女にまでからかわれて居た。
 お関は、どうかして見掛けだけでも気の利いたらしい若者に仕立てたがって、わざわざ自分で町へ出て流行ると云う鍔の狭い帽子を買って来たり、恭の着る様な白いシャツを着せたりして居たけれど、身装が恭に似て来れば来る程、掛け離れて気の廻りの鈍いぼんくらな取りなしが目立って来た。
 恭にはチョクリチョクリと芝居を打たれ、楽しみに頼りにもと思って連れて来た息子は人前にも出されない様だし、※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の祖母へ云い訳の立たない事をして居るのでお関は、朝から晩まで家を外に出歩いて、近くに出来る水道の貯水池の地所を買い占めに口を利いてやっさもっさして居る主人を捕えて、
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「どうするんですよ、彼れは。
 此間※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子さんが来てからもう幾日立って居ると思ってるんです。
 ほんとうに町の人でも中に入って御覧なさい、
 皆知れて貴方は赤い着物だのにね。
 一日たのまれもしない人の世話を焼いて自分の始末も出来ないなんて、お話しにも成りゃあしない、馬鹿馬鹿しくて。
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と責め立てても、畳の上にごろ寝をして煤のたまった天井をながめながら主人は、
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「俺は知らんよ、
 勝手におし。
 お前みたいに怒鳴ったら使った金が戻るだろうよ。
 なあ重。
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と、傍に長く成って居る重三に同意を求める様な事許り云って真面目に聞こうとも仕なかった。
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「重、お前も少しは考えておくれな。
 私一人でどうにも成るもんじゃあない。
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と泣き就いても重三は重三で、
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「わしは何の事か知らん――お阿母さん。
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と云う許りなので、お関は気でもどうか成りゃあ仕まいかと思う程無茶苦茶に成って仕舞って、陰気な様子でせっせと動いて居るお久美さんを罪も無いのに当り散らしたり故意と引きかぶった様子をして一日長火鉢の傍へ、へばり付いて居たりした。
 一日一日と立つに連れて贔屓目《ひいきめ》で見て居るお関にも重三の足りないのが目に余って来るので、自分の夫、周囲の人全体を偽って其那子を連れ出して来た罪が皆自分一人に報いられて来る様な気がして居た。
 今の内なら理屈の付かない事もないから帰して仕舞う方も好いかと思ったりしたけれ共、切角斯うやって運が向いて、阿母さん阿母さんと呼ばれて一緒に暮して居られるものを無理にそうも出来兼ねてお関は今までに覚えた事のない程気の弱い日を送った。
 重三の嫁の事等は勿論お関の念頭に無かった。
 村の者等が話の次手に、
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「それで何ですか、
 お久美さんとでも御一緒になさるお積りなんですか。
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と云い等すると、
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「いいえね、
 お久美はお久美で彼れには彼で別に何ぞ似合いの人が有ったら御世話願おうとも思ってますんですが、
 何ですか一向どうも。
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と云っては居たけれ共、お関には重三一人の事でさえ荷にあまって居るのだから其の嫁どころの騒ぎではなかった。
 今更仕過ぎたと思わないではなかった。
 重三は山田の主人と一緒に至極大揚に構えて居た。
 傍の者が自分を何と批評仕様が仕まいが、まるで介わずに、自分は自分だと云う様にのろのろと洗場で恭に云いつけられた用事を気が利かなく足しては嘲笑れたり、悪口を云われたりして居た。
 何を云っても笑ってばかり居るので、恭は愚にも付かない事に叱ったりして、お関に対する腹立ちを此の重三を通して療して居た。
 荒れた畑地を耕して麦粥を啜って居た今までに比べれば重三は今の境遇に充分満足して居た。
 僅か許りの水を汲んだり火を燃したりする丈で三度の物は好きな丈食べられ、鼻もひっかけられない様だった自分が兎に角、来る者から、
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「重三さん、御精が出ますね。
「重三さん、お暇が有ったらお茶でもあがりに行らっしゃってはどうです。
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と云われる事は真に気持が好かった。
 只、自分がお関の実の子だと云う事の出来ないのは何となし不都合な事の様では有ったけれ共、それとて生れ落ちるとから離れて居たので、はっきりどうと云う程心に銘じて居は仕ないので、矢吹が自分の生れた家だとして置いても差し支えは無かった。
 殆ど十位の子供程単純な一色の心を持って居る重三は世の中の不平を知らないで生きて来た。
 朝から日の落ちるまで鍬を握って泥掘りをして居た時も之が自分の運だと思って居た。
 今斯うして、山田の家の若旦那に成り、重三さん重三さんと云われるのも運だと思って居るから、振り返って見る今までの事が非常に辛かったとは思わないが、今の身分もそうひどく大切では無かった。
 けれ共、勿論種々な点で前よりも身体の労働の少くなった事を大変気持好く感じて居た。
 其れから又、自分の毎日の生活にお久美さんと云う若い娘が加わって居る事も重三には珍しかった。
 今まで朝夕顔を見合わせて居たのはもう六十を越した老女で有ったに拘らず、何処から何処まで力の張り切った様な滑かな皮膚と艷やかな髪を持ったお久美さんは、重三の目に殆ど神秘的に写って、素足が小石混りの熱い地面を走って通る時、重そうな釣瓶を手繰るムクムクした手を見ると、黙って見ては居られない様な気が仕て居た。
 けれ共物馴れない重三は其那時自分の取るべき方法を知らないので近寄りもしずに遠くから気の毒そうに眺めて居る許りであった。
 上半身をズーッと下げて、下の板間に敷いた紙にサラサラサラサラ音を立てながら素早い手付きで髪を梳いて居る姿、湯上りの輝いた顔を涼風に吹かせて凝り固った様にして居る様子等は、皆重三に自分とはまるで異った美くしいものだと思わせた。
 素直な崇拝者が其の偶像に対した時と同じ気持で、別世界から降って来た様なお久美さんを見て居た。
 容貌の美醜等と云う問題は重三の頭になく、只珍らしい、何だか奇麗に違いないらしい気持がして、出来る丈度々声も聞き姿も見て居たかった。
 けれ共お久美さんは出来る丈重三と顔を合わせまいとして居た。
 目の前に其の魂を何処かへ置き忘れて来た様な顔が出ると、其処に居たたまれない程不愉快に情なく成って、重三が此那で有れば有る丈お関は否応なしに自分と一緒にするに違いないと云う事が動かせない事の様に思われた。
 恭吉に顎で使われて、何を云われ様が頓と怒った顔を見せた事のない程鈍いのに、体許り鴨居に支えそうに縦横に大きい銅羅声の重三をどう思い返しても好くは思われなくて、其の馬鹿正直に、嘘などを逆《さかさ》に立っても云いそうもない所等は却ってお久美さんに厭な思いをさせる許りで有った。
 諦めなければならないと云う事をお久美さんは知って居た。
 けれ共彼れ程好く嬉しく想って居た事が斯うまで裏腹に行こうとは余り思い掛けなかった。
 大切に育てて居た子を急病で一息の間に奪われて仕舞った時の様な諦め様にも諦めのつかない歎きが心の奥深く染み込んで、重三を見る度にその堪えられない苦痛が鮮やかに浮み上って、お久美さんを苦しめるので有った。
 お久美さんは※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子に皆話して仕舞おうかと思っても見たけれ共、自分より年下のそんな事を云いも考えも仕ないで居るらしい者に恥じに成ろうとも知れない其等の事を明すには何だか不安であった。
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「まあ厭だ、
 私そんな事知らないわ。
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と一口に笑われて仕舞いそうに思えて、今まで一言も云った事の無い事を切り出す勇気は無かった。
 お久美さんは※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子が何の屈託も無さそうに一日中好きな物を読んで好きな事を考えて、厭になれば響ける様な声で歌を歌ったりして居る様子を思い浮べた。
 彼那に楽に彼那に好きに仕て居れば誰だって利口になれると思えた。
 どんな人だって、自分に仕て呉れる位の力添えや相談は仕て呉れるにきまって居ると思えた。
 彼んな暮しを仕て居る人に到底今の私の苦労が分るものじゃあ無いと、お久美さんは此頃めっきり育って、種々※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の知っては居ないと思われる感情を経験した自分の心を尊く眺めた。
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「お※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]さんなんてほんとに世間知らずだわね。
 そりゃあ呑気なのよ。
 彼那子供みたいな風をして一日中勝手な事ばっかりして暮して居るんだもの。
 やっぱり年が若いんだわね。
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等と独言の様に云って※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の事と云えば賞めるとしか思って居ない小女を驚かせたりして居た。
 お久美さんは今までの此那に長かった間何故自分が斯う思わずに過して来られたかと云う事が疑われる様で、七年の間の事が皆他所の噂を聞く様な気がした。
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