りませんかねえ。
 ほんとに可愛い子だった。
「そりゃあ彼の時分は可愛かったかもしれないけれど、此頃はどうだかしれないよ。
 家が家だからね。
 彼んな家に居てよくなれっこはないから用心しなけりゃあいけないよ。
 好い食いものになって仕舞うよ、人をよくして居ると。お前の様な世間知らずはじきだまされて仕舞う。
「疑ったらきりはないから、好い加減にして置かなけりゃあ駄目でしょう。
 そんな事思うと私はもういやになって仕舞う。
 ほんとに。
[#ここで字下げ終わり]
 ※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子はその晩種々な厭な事ばっかり思い浮べて涙をこぼしながら長い事眠られないで居た。

        九

 翌日の午頃※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子はお久美さんに会いに山田へ出掛けて行ったけれ共、一番先に出て来たお関に、町へやって留守だと断わられた。
 木曜に集りが有るから其の用事で行ったのだとほんとうらしい顔をしてお関は説明したけれ共、※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は家に居ると云う事をはっきり感じて居た。
 どうにかして会いたいとは思ったけれ共、一度居ないと云われた者を執念く索すのも何だか厭なので※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は思い切れない様にして帰って来て仕舞った。
 お関の顔には明かに昨日の話を不愉快に思って居るらしい毒々しい表情が有った。
 それや此れやで※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は昨日持った疑問を益々はっきりさせられた様な気がして居た。
 お久美さんの町へ行った事は嘘だったけれ共、木曜に集りの有るのは確かで有った。
 山田の主人が半夢中で信じたキリスト教も、その年のおかげで、低いゴトゴト軋る様な声の祈祷や讚美歌が尊そうにさも分って居るらしいので、一年も立ったこの頃では月に一度二度ずつ祈祷会めいたものを開く様に成って、中学の生徒だの村の娘達だのが半分珍らしい物を見る様に、一度はまあ行って見ようやと云う調子で集まって来た。
 けれ共中には熱心な者も有って、集りがあればどんな天気でもかかさず来て世話を焼く娘も有った。
 山田の主人も、くつろいで涼める夜を片くるしい文句の講釈や口から出まかせの又聞き説法などには過したく無かったのは重々だったけれ共「先生、先生」と自分を呼んで有難がって居る若い者が、
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「もう今月はなすっても好いでしょう。
 先々月からズーッとお休みつづけですからね。
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などと几帳面に云って来るので、気乗りもしないがそれ等の者のためにと云う様で木曜日が定められた。
 昼間では働きに出るのに困ると云うので、其の日も夜から開かれた集りには十五六人の者が出席した。
 息づまる様に黄暗い電気の下で、小机だの針箱だのを積み重ねた上に白かなきんを掛けたテーブルをひかえて、落ちそうに目鏡を掛けた主人が小形のバイブルと讚美歌集を持って立った。
 敷く物もなしに取り澄した様子で居並んだ者達は、一種異った気持を持って、禿げ上った大きな額と白く光る髭の有る老人を見あげた。
 いつもの習慣通り家の者は一番後に座って各自に勝手な事を考えながら、壁に掛けられた十字架のキリストの絵だのマリアの石版画を眺めたり、平常馬鹿をつくしてお関に押えつけられて息もつけない様にして居る時とはまるで違って、ほんとに何か出来そうに見えて居る主人を懈《だ》るそうに見たりして居た。
 扇や団扇を話の間に使ってはいけないと云い渡されてあるので、物は方便だとあきらめて、妙な声を出してはアーメンと云うのも聞き捨てて居るお関は、都合さえよい様になるのならと素直に夫の命を守って、折々暑苦しそうに身を揺ったり、足に止まった蚊を無作法な音をたてて打《たた》いたりしながら云い訳に苦しんで居る橋本の金の事を考えて居た。
 自分の傍に引きつけて坐らせてある恭の方を時々見ながら、
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「彼那に止めるのも聞かずに使って仕舞って、一体どうする積りなんだろう。
 使う時は勝手に使っといて、後の仕末はいつでも私にさせるものだと思ってる。
 さかさに立ったって今すぐ彼れ丈のものが右から左へ出るものではなし、若し彼の家で他の人でも頼んだら皆ばれて仕舞うのに、何て呑気な人なんだろう。
 アーメンどころじゃあ有りはしない。
[#ここで字下げ終わり]
 お関は、忌々しい様に落着いた様な調子で、
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「神の我々を恵ませ給う事は……
[#ここで字下げ終わり]
と云って居る主人を上目で睨んで居た。
 ※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子が来てから不安がって居た問題が又お関の心に鮮やかに成って来て、毎日の様に別に之と云う考えもなく、苦しまぎれに、
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「どうかするから、
 お前なんか介わんで置け。
[#ここで字下げ終わり]
と云う主人をつかまえては腹をたてて居た。
 訴えられでも仕様ものなら大事《おおごと》になる危い金まで使って、村長に成ろうとか何とか騒ぎたてて、揚句のはてに来たものは前よりも多い借金の証文と悪口であるだけでもむしゃくしゃするのに、橋本の金の事まで思うと、余り意地が焼けて一素の事首でも括ってやれとまで思って居た。
 そんな事を思うに熱中して居たお関には、今主人が何を云って居るのだか、前に背中を並べて居る者達が何を云って居るのだか、さっぱり知らないで居た。
 いつの間にか皆が皆首をズーッと下げて額を手で支えて中[#「て中」に「(ママ)」の注記]に自分一人ポッツリと頭をあげて居ぎたなく横座りに仕て居るのを気づくと、お関は周章《あわ》てて前をかき合せて恭の顔色をうかがいながら下を向こうとした時、土間の方で誰かが案内をたのんで居るのが聞えた。
 お関は好い機にして立って行って見ると、北海道へ久しく行って居た清川と云う、主人と親しく仕て居る男が、まだ着いた許りと見えて鞄を片手に下げて立って居た。
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「まあ、誰かと思ったら貴方で居らっしゃるんですね。さ、どうぞお上り下さいまし。
 今申して参りますから。
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 お関は客を暗い土間に立たせたまま主人の所へ引き返して臆面もなくズカズカと皆の前に立って、
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「まあ、貴方、清川さんが行らしったんですよ。
 お上げしましょう。
 早くいらっしゃい。
[#ここで字下げ終わり]
と云うなりバタバタと馳けて行った。
 静かに思いをこらして居た皆の者はあっけに取られて意外な破壊者を見送って、どうするのかと決心をうながす様に主人に目を向けた。
 厳らしい様子で落ついて居た主人は、急に、
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「ああそうか、すりゃあ好く来なすった。
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と云うと、皆に、
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「今日はもう客がありますから一寸。
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と二三度頭を下げてそそくさと暗い方へ行って仕舞った。誰も口を利く者も立つ者もない位魂を奪われた者達は、自分達をどうして好いのか惑う様に互に顔を見向わせて、静まり返って心の高まる様だったと思われて居た前の瞬間を不思議に思い浮べて居た。
 急に足元を浚われた様な皆は、始めの間こそ妙に擽ったい様な滑稽な気持になって居たけれ共、しばらくすると、自分達に加えられた無礼に対する反感がムラムラと湧き上って、前よりも一層引きしまった顔を並べて黙り返って居た。
 娘達は大嵐の起ろうとする前一刻の死んだ様な寂寞に身を置いて居る様な不気味さで互に袂のかげで手を堅く握り合ったり肩をぴったりすりよせたりして、何かたくらんで居るらしい若者の群を臆病に折々見合って居た。
 皆の心は怒で波立って居たけれ共、その時主人が最一度顔を出して何か一言、
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「失礼してすみませんでした。
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とでも云えば、
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「いいえ、何。
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と云う丈の余裕は有った。
 けれ共土間で声は聞えながら主人夫婦と客とはなかなか出て来なかったが、二階へ行くに通らなければならないので三人は一かたまりになって皆の座って居る傍を通った。
 白い洋服を着た男は主人を振り返りながら、
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「お集りですね、どうぞおかまいなく。
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と云うと主人は平手で人なみより大きい頭を叩きながら、
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「いや何でもない。
 介わんのさ。
 ま、二階で一杯やるのさ。
 貧亡[#「亡」に「(ママ)」の注記]して居ると酒で憂さ晴しだよ。
[#ここで字下げ終わり]
と云って大声で笑いながらドヤドヤと皆なんか小蟻のかたまりとも思わない様子で行って仕舞った。
 若者の憤りは頂点に達して仕舞った。
 どっかの隅で誰かが、
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「何て云うこったい。
[#ここで字下げ終わり]
と云ったのが導火線になって十二三人の口からは火の様な罵りが吹き出た。
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「一年もよく化の皮を被り終うせたな、爺い、
 到々尻尾を出しやがった。
「偽善者!
 打っちまえ、打っちまえ。
 何かまうもんか、彼那奴。
「貧亡[#「亡」に「(ママ)」の注記]すると酒でうさ晴しだとよ。
 俺達に、酒は神のいましめ給うた何とかだなんて云いながら、お前だけには許し給うたのかい。
 あんまり馬鹿にしてもらいますまいよ。
[#ここで字下げ終わり]
 一人がドカドカと階子口に走けて行ったのにつれられて一人もあまさず一所にかたまった若者は、荒い北風と貧しい生活に育てられた野性を隠す所なく発揮して、さわがしく怒鳴りながら折々ワーッと鬨の声をあげた。
 彼等は皆極度の亢奮で顔を赤くし目を輝かせて、鍬を振い鋤を握るになれた力の満ち満ちた腕を訳もなく宙に振ったり足を踏みならしたりしながらその単純な胸の中を争闘の本能の意外な衝動に掻き乱されて、一人として静かな我を保って居る者はなかった。
 主人夫婦に対する憎しみは喉の張り裂けそうな声となって二階に犇めき上って行った。
 或る者は力まかせに階子を足蹴にしたり拳で叩いたりした。
 若者共は悪口の種をあさった。
 選挙の日、反対党を撲った事
 買収仕にかかって失敗した事
 その他あらゆるその男の恥辱になる事々を叫びながら、
 「殺して仕舞え」の
 「覚えて居ろ」の
 声をそろえて今にも逃げ路のない二階へ雪崩れを打って躍り込みそうな勢を示した。
 あまりの事に暫くの間黙って見て居た娘共は、物凄い叫び声と皆の顔に怯えて、音もたてずコソコソとかたまりあって黒い外へと逃げ出して、息を弾ませながら走り去って仕舞った。
 お久美さんは只恐ろしかった。
 今にも自分達が殺されてでも仕舞いそうになって、納屋の中に農具と一緒にかたくなって震えて居た。
 皆をなだめる筈の恭吉は真先に姿をかくして仕舞って居たし、集まった者の相当な年の者は最初主人が立ち去ると同時に帰って仕舞った。
 すべての様子が皆若者達が暴威を振うに適した状態にあった。
 互の声と激亢に煽られて急造の机を履み倒したり、キリストの絵を裂いたりして居ても二階からは人の顔がのぞきもしなければコトッと云う音さえもしなかった。
 主人と清川は運ばれたばかりのビール瓶を握って階子口の両側に立って、黒い頭の現われるのを待って息をのんで居た。
 お関は半ば失神した様になって戸棚の中にボーッとして居た。
 上と下とで互に相手の現われるのを待って居た。
 上から降りて来る者は誰も居なかった。
 下から昇って行く者は一人もなかった。
 両方の張りつめた心は少しずつゆるんで来た。若者共の叫びは折々思い出した様に繰り返された。
 けれ共彼等の目前には黄色の灯の下に取り乱された貧しい家具と引きさかれた絵が淋しく淋しく霊を地の底に引き込みそうに横わって居るばかりだった。
 十二三の喉が拡がって迸り出る声が無
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