はうっかり口も利けない様なのを皆は笑い草にも鼻つまみにも仕て居たが、どう云う生れでどんな経歴のある女だか等と云う事は知る者が無かった。
 けれ共此の村が明治二十年頃開墾されてじきに、山田の主人と一緒に皆と同じ様に軽い荷と、頼り少ない財布でY県から普通の移住民として入って来て以来のお関は、もう二十年以上も絶えず噂の中心になり陰口の種にされて面白くもない日を送って居た。

 お関はY市の小機屋の娘であった。
 女二人限りの姉妹でありながら、性質がまるで異って居て、妹のお駒と云った五つ違いの娘と同じ腹から産れた者とは思えない程であった。
 お関は負け嫌いで小さい内からかなり身巧者に働いた代り何か気に入らないと、引きつめに毛の根のふくれる程きっちり銀杏返しに結って居るお駒の髷をつかんで引っぱったり、後からいきなり突き飛ばして、小柄な妹が毬の様に弾んで行って突調[#「調」に「(ママ)」の注記]子もない柱等にいやと云う程体を打ちつけて泣き出したりするのを見て面白がって居た。
 近所では「あばれ娘のお関坊」と云う名を付けられて居たけれ共その文盲な親達はせっせっせっせとお関の働くのを何よりと思って居たので、
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「家のお関も手荒らですが働きますからこんな貧亡[#「亡」に「(ママ)」の注記]者には下されものですよ。
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と自慢さえして居た。
 そして何でも内場[#「場」に「(ママ)」の注記]に内場[#「場」に「(ママ)」の注記]にと振舞って体なども親に似げなく骨細に出来て居るお駒を却ってどうでも好い様に取り扱かって、祭りの着物なども、
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「姉ちゃんは働くからな。
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とお駒に去年のままをあてがって、お関にだけは新らしいのを作ってやったりするので益々図に乗ったお関は家中の殆ど主権者と云って好い位|自惚《うぬぼ》れて勝手気ままに振舞って居た。
 何にしろそう大して織物の出ると云うでもないY市のしかも小機屋であったお関の家が年中寒い風に吹かれて居たのは明かであった。
 朝から晩まで母親と父親と小さいお関までかかって、ギーッパタン、ギーッパタンやって居たところで入って来るもの等は実に軽少なので、片手間に畑を作ったりして居たけれど、段々娘になって来る二人を満足な装もさせられないので、十七の年お関は仲間の者の世話で程近いM町の生糸屋へ奉公に遣らせられた。
 M町はY町[#「町」に「(ママ)」の注記]と山一重越した丈の事であったけれ共、まるで世の中の違う程すべての事が都風で、塵をかぶって髪の毛も何も、モチャモチャにして居たお関は、行って七日と立たない内にすっかりM町の生糸屋のお仲どんになりすまして、油のたっぷり付いた大形な銀杏返しに赤い玉のつながった根がけなどをかけて「おはしょり」の下から前掛けを掛ける事まで覚えて仕舞った。
 表面のはでに賑かな其処の暮しはお関に如何にも居心地がよくて、あばれでも手荒らでも何処か野放しの罪の無かったのがすっかり擦れて――自分の方からぶつかって擦れ切って仕舞った。
 いつとはなしに釣銭の上前をはねる事も覚え、故意《わざ》と主人に聞える様な所で厭味を云う事も平気になって来ると、丁度すべてに変化の来る年頃にあったお関は種々の生理上の動揺と共に段々川を流されて行く砂の様に気付かない内に性質を変えられて来て居た。
 その時頃からお関の今だに強く成ろうとも抜ける事のない病的な嫉妬心が萌え出して来て居たのである。
 朋輩の仲よしをねたんで口を入れては仲違いをさせて見たり、煙草好きな主婦の大切がって居る煙管をちょっと布団の下にかくしてみたり、ちょいちょいした小悪戯をして居た。
 けれ共やっぱり子供の時からの癖で働く事もなかなかよく働くので主婦等はかなり目を掛けて、自分の煙管をかくされた等とは一向気付かず時には半衿だの小布れだのを特別にやったりして居た。
 用が激しいので大抵の者は厭に仕て居ますと云う様な、そうでなくてもお関程面白そうに賑やかにしながら立ち廻って居る者のない中なので主婦は、
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「あれは年に仕ちゃあよく働くね。
 きっと永く居る積りなんだろ。
 こっちも重宝で好い。
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などと話す事もあったしお関も又ずーっと居て此処からどっか似合いの所へ身の振り方も極めてもらおうなどとさえ思って居た。
 此の間にお駒は同じ町の或る士族へ小間使に入って居た。
 年寄夫婦と大きな息子が三人居る丈の至極静かな家だったのでお駒の気質に合って、主人達からも可愛がられ自分も仕事だの手紙の書き様だのを教えてもらって満足した日を送って居るうちに喘息を持病に病んで居た父親が急に貧亡[#「亡」に「(ママ)」の注記]敗けをしてポックリと死んで仕舞った。
 二人は泣いても叫んでも仕様がないので、前の通り奉公をつづけ、哀れな母親は独りで僅か許りの畑と機物で口を過して居る様になった。
 別にそう大して悲しがるでもないお関を見て主婦等は、
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「こちらを一生の家にさせて戴きますのですから。
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と云うお座なりをまんざらの偽とは聞き流さなかった。
 山の彼方で母親ばっかりが淋しく暮してお関が十九に成った時急に思いも掛けず手紙だの人だのをよこしておしむ主婦の言葉に耳もかさない様にしてお関を連れ戻って仕舞った。
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「私ももう年も年でございますし、誰一人相談相手のありませんのは淋しくて堪りませんから御無理でしょうが。
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と母に云わせて実家へ帰ったお関は六七ヵ月すると大きな赤坊を産んだのであった。
 お関はその子が男で有った事、重三と母親が付けたと云う事丈は知って居たが、碌に顔も見ずにすぐ近い村へ里子にやって仕舞った。

        六

 口を利く者が有って山田へ来たのはお関の二十の時であった。
 当時もう四十二三に成って居た主人はお関が来るとすぐY町[#「町」に「(ママ)」の注記]から今居る村に移ったのであった。
 口利きが確かだからと云うので理屈なしに嫁入って来たお関は勿論自分の夫がどんな人柄だとか何が仕事か等と云う事は余り聞きもしず居たのだけれども愈々一つ家に住んで見ると流石のお関もあきれずに居られない様な事ばかりであった。
 一定の仕事の無い上に絶えず目算ばかり立派に立てて居る主人は何一つとしてまとまった事にはせず、年が年中貧亡[#「亡」に「(ママ)」の注記]に攻められながら「今に何かやって見せるぞ」と云う二十代からの望みをはたすためにあくせくして居た。
 けれ共彼のする事は皆人並を脱れた事ばかりで、出放題な悪口を云って見たり借り倒したり、僅か許りを小作男に賃貸してやって期限に戻さないと云って泣いてたのむのを聞かずに命より大切がって居る一段にも足りない土地を取って仕舞ったりして居たので、遠慮のない憎しみが山田の家へ村中から注ぎかけられて居た。
 若し山田の夫婦がもう少し人間並であったらもうとうに此の村等には居られない程長い間には種々ひどい事も云われて来たのだけれ共、図々しくなって居るお関と無人格な様な主人の耳にはかなり和らげられて響いて居たのである。
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「なあに、何でもないさ。
 わし等を嫉んで奴等下らん事を云うとる。
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と主人は楽観して居て、自分達に加えられる批難の多ければ多い程自分の仕事は大きな力ある物なのだとさえ考えて居た。
 或る時は鉱山師であり或る時は専売特許事務所の主人でありしたけれ共、いずれも只一時の事で、かなり山田の主人として成功した事と云えば七八年前から始めて今に至って居る西洋洗濯であった。
 それも大抵の事はお関が切り盛りして顧客の事から雇い男の事まで世話をして居たので漸々今まで続いたので、主人は相変らず選挙運動だ何だ彼だと騒いで居た。
 けれ共一二年前からはどうした事か急にキリスト教を盛に振り舞わして何ぞと云っては、
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「それは神の御心に叛く事と云うものだ。
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とか、
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「我々が斯うやって飯を食えるのは一体どなたの御かげだ。
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などと云って居た。
 山田の主人はキリスト教は只世間の「馬鹿共」へ対しての方便だと思い、
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「な、そうだろ。
 だからやっぱり信じとった方がいい。
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 誰もお前『神様、神様』と云うとるものが泥棒だとは思わんもんな。
 そうすりゃあ万事トントンに行くにきまってる。
とお関にも説き聞かせたのでお関もその気になって、
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「うちでもね貴方この頃めっきり人が変りましてすよ[#「変りましてすよ」はママ]、キリスト様を拝む様になりましてからね。
 前には随分気が荒くて困りましたけれど、もうちっとも大きな声も出しませんでね。あらたかなものでございますねえ。
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などと云って居た。
 其那有様で、今は西洋洗濯でまあどうやら行って居るのだけれ共、主人が考えなしにポンポンと借りて来る金を返すにいつも追われる様なので、子供の時分から貧困に頑なにさせられたお関の病的な気持は又もう一度巡って来た変転期にすっかりかたく強められて仕舞ったのである。
 お関は自分達が惨めであればある程少しでもゆとりの有る生活をして居る者が嫉ましくて、彼れでさえあの位には暮して居るのにと思うのが原動力になって、季節季節には欠かさず養蚕をし、利益の多いと云う豚を飼い、裏の空地に葡萄棚さえ作って朝から晩まで落付く時なくせかせかして居た。
 けれ共豚は子をせっせと産んで行くばかりで、それをどうやったら一番上手な遣り方で儲けられるかと云う事も分らなかったし、葡萄もどうすると云う程は土地の故でならなかったので、夢にまで五円札十円札を見てうなされながらお関は進みも退きもしない貧しさの中に立ちどまって居なければならなかった。
 そんな時に、奉公先から片附けてもらって或る小間物屋の女房になって居たお駒が、顔に出来た腫物のために死んだ夫の一週忌もすまない内にその後を追いかける様にして自分も気病みが元で死んで仕舞った事は種々な点でお関を困らせた。
 たった一人残されたその時十一の娘のお久美さんをどうしても自分の方へ引きとらなければならない事は染々《しみじみ》とお駒の在世をのぞませた。
 主人も「どうせ子供だね、知れたものだよ」と云って居るので到々広い世の中に寄る辺ないお久美さんは山田の「伯母さん、伯父さん」に育てられる事になった。
 お久美さんはお駒よりも却って父親に似て居たので、お関などとはまるで違った顔立ちと体つきを持って居た。
 髪等も房々と厚くてどこか素なおらしい体つきの子であったが、まだ十三四で、四肢も木の枝を続ぎ合わせた様に只長い許りで、肩などもゴツゴツ骨張った様な体の中は、お関はお久美さんに対して何にも殊[#「殊」に「(ママ)」の注記]った感じは持たなかった。
 時にはほんとに可哀そうな気になって、
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「お前の様な者が好い身寄りを持たないのは不仕合わせだね。
 私共の様な所じゃあ何も出来ないからね。
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などと云う事も有ったけれ共、一度一度と日の登る毎にメキメキと育って来たお久美さんがすべての輪廓にふくらみと輝やかしさを持って来ると、お関はその力の満ちた様な体を見る事だけでも、一種の押えられない嫉妬と圧迫を感じた。
 出来る丈見っともなく仕て置かなければならない気持でお関はいやがるお久美さんを捕えて、「働き好い」と云う口実で彼《あ》の西洋人の寝間着の様なブカブカしたものを夏にさえなれば着させて置いた。
 けれ共其れは何にもつまりはならなくて、若さはその白い着物の下にも重い洗濯物を持ちあげるたくましい腕にも躍って、野放しな高い笑声、こだわりのない四肢の活動は却ってその軽く寛やかな着物の
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